女は電話をかけ続けた。
1度目は誰もでなかったらしく、すぐに受話器を置いた。けれどまたすぐに受話器をとってかけた。二度目は繋がったらしかった。寒さに凍えていた女の頬が色づいて、声のトーンがはねあがる。相手は家族か何かだろうか。女の声を聞きながら、暗く湿った世界にぽつりと浮かぶ我が家を思った。雨が降れば水漏れがし、地下鉄が通る度にテーブルの上からなにかしらものが落ちる、快適とはほど遠い我が家。
 帰りたいだなんて、死んでも言わないけれど。
 
 
 



 
 
SEEING RED
 



 
 
 
 
 
 体中をはね回るような鈍痛に目を覚ますと、そこはだだっ広い倉庫だった。中には搬出を待つ積荷が幾つかの山に別れて置かれていた。山ごとに覆いがされ、日付を書いた札が下がっている。差し込む強い光にラファエロは目を細め、赤茶けたトタンの隙間から外を覗いた。すぐ近くで安全帽を被った人間達が忙しなく行き交い、大型のトラックが地面を揺らしながら何台も通り過ぎていく。どのトラックも焼き印の押された木箱を山のように背負っていた。遠くに見える原色の群れはコンテナだろうか。それなら、向こうで眩しくきらめいているのは海に違いなかった。ぼう、と汽笛が鳴り響き、海面をコンテナ輸送船がやってくる。
 ラファエロは体を起こそうとした。だが木箱を背負うようにロープで縛られていて、身動きがとれない。目の前にぶらりと下がった女の足。滑らかな白い肌に真新しい擦り傷が目立って目に痛いほどだ。
 女は、サイズの合わないパーカーを羽織り、木箱の一つに腰掛けて中から失敬したらしい缶詰のトマトを空けようとやっきになっていた。手にしているのはラファエロが愛用しているサイの一方だ。
「・・・かえせ」
 ラファエロが呟くと、女は一瞬驚いたように体をこわばらせたが、缶を両手に持ったまま、にっこりと微笑んでみせた。ラファエロの前にかがみこみ、じっと顔をのぞき込んでくる。無邪気にまわる灰色の瞳を睨み付けると、女は骨張った手をこすり合わせて何度も何度もおじきをしてみせた。その口からは聞いたことのない異国の言葉が繰り返し漏れる。眉根を寄せたまま答えずにいると、女は黒く痣になった目元を擦りながら、
「人間?」
「・・・ミュータントだ」
「ミュータント?」
「オレみたいな奴のことだ」
 今度は女が顔をしかめる番だった。ラファエロは痛む頬を上げて形だけの笑みをつくると、自分を縛っているロープを示して言った。
「なあ・・・こいつを外してくれよ」
 女は首を横にふり、ショルダーバックを降ろして中身を下に広げ始めた。まるまったシャツと下着、飲みかけのミネラルウォーター、折れ曲がったN.Y.のマップと無造作に輪ゴムでとめた手帳、最後に落ちたのは緩衝剤にくるんだビニル袋の束で、中から薄いピンクの錠剤が覗いていた。女がビニル袋を一つ取り出して地面に置く。上からペットボトルの底を押しつけ、錠剤を細かく砕くと、粉末をボトルにあけてかきまぜた。そしてどこかで聞いた声色で「おすそわけしてあげる」と言いながら白く濁った水をラファエロに差し出してみせる。
 顔を背けると、女は早口で何か呟き、汚れた手でラファエロの頬を撫でた。
「お願い、おねがいします」
懇願する女を、ラファエロは口を固く閉じて睨み付けた。女は涙ぐみ、声を震わせて何度も”おねがい”を繰り返す。ラファエロがなおも拒み続けていると、倉庫の扉が開いて、鋭く女を呼ぶ声がした。頼りなく揺れる乳白色の光りの中に、浅黒い肌の人間たちがやってくるのがみえた。髭を蓄えた老人から、年端もいかない子供まで様々で、各々長いスコップや、角材、見るからにちゃちな自動小銃なんかを持っていた。
 女はボトルを抱えたまま罰が悪そうに彼らを出迎えた。一人進み出てきた若い男が強めの口調で事情を説明しろというようなことを話す。女がもたついていると、男は語気を強め、ラファエロに向かって短い単語を幾つか吐き捨てた。それが罵り言葉であることぐらいはラファエロにも理解できた。宥めるように女が男に手を伸ばす。男はぎぃと甲高く叫んで女の頬を張った。まけじと女が張り返すと、男は怒りで全身を震わせて女の顔や腹を容赦なく殴りつけた。
「・・・おい」
 男の手がとまる。ラファエロは痛む頬をあげ、きれぎれの声で言った。
「女におつかいさせてんじゃねぇぞホモ野郎が」
 男は仲間の持っていたスコップを奪い取ると、先をがりがりと引きずりながら、ラファエロに歩み寄ってきた。黄色く濁った歯が笑い、ひゅうとスコップの先が持ち上がった。女がわめいた。がつと鈍い音がした。男の振り下ろしたスコップが腹にめりこみ、ラファエロは呼吸もできずにあえぐ。男は構わず二度、三度、と繰り返し、青ざめた女が力ずくでそれを止めた。そのまま言い合いを始めた2人からは「だめ」とか「家」とか「船」という単語だけが聞きとれた。「だまれ」と誰かが言った。女はいかにも哀れそうな声をあげて男にすがった。体をすり寄せ、隆起した胸板に頬をこすりつける。2人は熱く見つめ合った。男の目尻に涙が浮かび、感極まったように女の腰を引き寄せた。逞しい腕に抱かれた女は微笑みを浮かべて男の背を撫でた。そして長いキスをする。ラファエロは朦朧としたまま、その光景をなにか映画でも観ているような感覚で眺めていた。
 やがて2人は名残惜しげに体を離し、男が柔和な笑みと共にラファエロにペットボトルを差し出した。ラファエロはゆるゆると首を横に振った。焦れた男の手がラファエロの顎を掴み、強引に白濁した水を流し込む。ラファエロは半ば咳き込みながら、苦い水を嚥下した。
 ボトルの半分ほどまで来たとき、倉庫の外から警戒を呼びかける声が聞こえてきた。男はすぐさま立ち上がり、仲間に呼びかけて倉庫の扉を開け放った。女はラファエロの肩にパーカーをかけながら「ごめん」と囁いた。その手でロープをほどき、力なく下がったラファエロのてのひらにサイを握らせる。入り口に留まっていた男が焦れたように女を呼んだ。女は、あたりに散らばったものをかき集めると、男の後を追って倉庫の外へ飛び出していった。
 ラファエロは俯いたまま、どっどっと脈打つ自らの鼓動を聞いていた。せわしない呼吸や巡る血、噛みしめた歯の軋む音があちこちで反響していた。視界は徐々に晴れ渡り、土の味や風の重さがやけに生々しく質感をもって現れた。全身を覆っていたはずの痛みが消えていく。
 まとわりつくロープから逃れ、手に持った鉄の柄を握り直した。差し込む明かりを辿って倉庫をはい出ると、丁度太陽が水平線に沈むところだった。ぐずついたトマトみたいに飛び火した光が、凪いだ海に停泊するコンテナ船の輪郭をなぞる。サイレンが鳴って、人の群れが一斉に移動を始めた。ラファエロは流れに逆らって歩いた。
海面が暗く沈みはじめていた。反して空は益々高く遠のいていった。黄色と緑のコンテナの隙間を抜けて、つんのめりながら仰いだ空に、いまにも消えそうな上弦の月が浮かんでいた。発電機が一斉に稼働し、白色の作業灯がぼんやりと立ちつくすラファエロをスポットライトで抜いたみたいに切り取った。
 向こうから背の高い2人の男が歩いてくるのが見えた。真っ黒なスーツを着込み、紙のように白い貧相な顔には黒目ばかり大きい瞳がふたつ、こちらを見ている。
 引き金が擦れる音がした。やけに遅い銃弾が、立ちつくすラファエロの服を破り、ももの皮膚を削って地面にめりこんだ。ラファエロはわけが分からぬまま黒く焼けた傷口を見下ろした。反射的にそこをなぞった指を顔の前に持っていき、匂いを嗅いだり舐めたりしてみるが、どうにも実感がない。両手のサイを持ち直した。柄に巻いた滑り止めの布地を引っ掻いて、感触を確かめる。重みはなく、感じるのは音と、ただそういう絵を見ているような、奇妙な離脱感だ。
 すぐに二度目の銃撃があった。弾は足元で跳ねた。
 ラファエロは暗闇のなかでぎらと光る銃口をみつけると、手の中の得物をなげつけた。切っ先が銃の口に突き刺さる。明かりの下から飛び出すと、くるりと体を反転させて持ち主を蹴り倒した。転がったセミオートのグロックからサイを引き抜いた。とたん、じゃかじゃかとやかましいくらいの装填音がして、ラファエロはコンテナの隙間に体を滑り込ませた。ぱちぱちと火花が散り、コンテナに当たって砕けた弾頭の破片が顔を庇う腕にめり込んだ。間をぬって走り続ける。複数の足音と、「撃ち殺せ」という酷くなまった英語があちこちから聞こえてきた。サイを握る手が滑る。持つ手が黒くぬめっている。痛みはない。
 正面から男が2人来た。とまらずにサイを持ち替え、固い柄の部分で殴って無理に抜ける。後方から銃声がして甲羅にかすかな振動が走った。そばにあった運搬用の重機を押し倒してそれを足場にコンテナの上へ飛び上がる。ついた足が滑ってごろごろと転がり、そのまま資材の山に突っ込んだ。パイプや鉄板が崩れて上に覆い被さってくる。
 意識が細切れになり、自分が上を向いているのか下を向いているのか、よく分からないままもがきにもがいて資材の中から這いだした。せばまった視界の中でなんとかたちあがって、コンテナの面をなぞりながら歩きだす。心臓が耳元で脈打っているようだった。咽が木枯らしみたいに鳴り、腕も足もずしりと重くなっていく。
 顔をあげると、永遠に続くような細い道の向こうに誰かが立っていた。みあげるとほど大きな体躯の男だ。ぶらさがった太い腕には棍棒をぶら下げている。慌てて戻ろうとすると、後ろにも背の高い人影が立ちふさがる。男達はラファエロの姿を認めると、長い腕を持ち上げて、何か注射器のようなものを自分の首に打ち込んだ。しいしいと笑う声がする。道を横に抜けるが、彼らはどこまでもついてきた。距離がどんどんと縮まっていく。
 ラファエロはマンホールの蓋を探して地面を追いはじめた。走って走ってつまずいて転がりながら立ち上がり、また走った。港の外れまでやってくると、フェンスの向こう側に市街地が見え、車道にたくさんのマンホールの蓋が並んでいるのをみつけた。編み目に指を入れて揺さぶった。がしゃがしゃと音を立てながらフェンスを辿っていくが、どこまで行っても切れ目が見あたらない。みあげたフェンスは二階建ての家ほどの高さがあって、てっぺんには有刺鉄線が巻かれていた。ラファエロは構わずそれをよじ登ろうとした。けれどその背中を掴まれて地面に叩きつけられた。今まで感じなかったはずの痛みが全身を駆け抜けた。あえぐラファエロを、焦点の定まらないほら穴のような目が、じっと見下ろしていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「ラフ、ラファエロ、そこにいるのか。オレだよ、ケイシーだ」
 がちゃがちゃとドアノブがまわる。扉には鍵がかかっていた。いくらやっても開くことはない。ラファエロはぶつぎれの記憶を彷徨っていた意識を戻し、曇りガラスの向こうでうごめく影に目をやった。
「いるんだろ、なあ」
 ラファエロは答えなかった。
「なにか言えよ」
 心細げなケイシーの声。ラファエロは気配を殺し、穴だらけのジーンズの膝に顔を押しつけて、彼が諦めるのを待った。がちゃと再びドアノブをまわす音とともに、くそ、と小さく吐き捨てて曇りガラスから影が遠のいた。ほっとしてラファエロが息をつくと同時に、ばんと扉を蹴り上げる音。
「無視すんな!ここがどこだと思ってんだ!オレんちの物置だぞ!?ばれてんだよいいかげんにしろ!」
 がたがたと扉が揺すられる。ラファエロは体を小さく丸めたまま部屋をぐるりと眺めた。壁に立てかけたゴルフクラブ、ホコリを被ったクリスマスツリー、冬用のラグに扇風機、鍋にフライパン、おもちゃのゴールポストなんかが、意味もなく転がっていた。
「ラフ!!」
 扉が壊れそうだった。ラファエロは重たい体を起こして、ドアノブに手をかけた。
「・・・なにつまんない意地はってんだよ。どうせレオとケンカでもしたんだろ。オレもつきあうから一緒に真っ二つにされようぜ。そしたら元通りだ」
 いつだってそうだろ、と震える声でケイシーが言った。ラファエロは向こう側で佇む影をみつめた。影はもうそれ以上何も言わず、小さく鼻をすすり上げる音とともにゆっくりと小さくなっていった。
 ささくれだった木の扉に額を押しつけた。瞬きを忘れた視線の先に、赤く滲んだ自分のつま先が見えた。包帯の下の深く抉れた桃色の肉を思った。
ラファエロはそっと鍵を外して扉を開け放つ。おぼつかない足取りで陽光照りつける屋上に歩み出た。ケイシーの姿はなかった。
 よく知ったアパートの屋上を、できるだけ時間をかけて歩いた。普段なら通り過ぎてしまうような小さな天窓や、屋上に立つ貯水槽を支える細長い足の間をくぐりぬけ、ふと、俯いていた顔をあげると、太陽が色濃く残した影の中に人が立っているように見えた。しょぼつく目を擦る。そいつは蜃気楼みたいにおぼろげな姿で佇んでいた。傾いた細身の体と長い首の先には小さな女の顔がついていて、明るい灰色の瞳が瞬きを繰り返している。
ラファエロは着ぶくれしたパーカーのポケットに手を差し込んだ。握りしめた拳を引き出してゆっくりと開くが、そこには空のビニール袋があるだけだった。じわりと汗が吹き出した。頭を振って感覚を逃がし、そのまま顔をあげず足早に蜃気楼を抜けた。
 小綺麗なビルをいくつか過ぎると、人通りの少ない市街地の屋上に出る。薄れかかる記憶を頼りに歩き、ひときわ古いアパートをみつける。屋上のふちに立って眼下を覗き込んだ。2階下のバルコニーに黄色いテープが張り巡らされている。満開のパンジーの鉢が粉々に砕け、根が風に晒されていた。音を立てないようにバルコニーに降り立つと、割れた窓から室内へ入る。10畳ほどの居間だ。テーブルはひっくりかえり、棚のものは全て床に落ちていた。ビールの空き缶に混じって、割れたフラスコと大量のアルミホイル、中身のこぼれたアルコールランプといったまるで小さな実験室みたいな道具があたりに散らばっている。ラファエロは部屋にある引き出しを片っ端から開けていった。ほとんどが空か、あっても領収書の束だ。
 居間を出ると、廊下のカーペットに点々と赤黒いものが続いていて、それぞれに数字の書いたフダが立てられていた。跡をたどっていくと、たいして長くはない廊下の途中に、蝶番が外れてぶらりと浮いた戸をみつけた。中央に大きな穴が空いている。中を覗くと水浸しになったタイルの床と、汚れた洗面台が見える。穴だらけのビニールカーテンの裾をそっともちあげると、レールごと外れて落ちた。
 がたん。
 盛大な音がした。玄関口から話し声が聞こえてくる。幾人かの足音とせかすような声が聞こえ、ラファエロはすぐさま壁をよじ登り、玄関上の天井に手足を突っ張って息を潜めた。気配を断つのとほぼ同時に扉が開いて、二人組の制服警官が入ってくる。先に入ってきた一人は中の様子を確認するとおおげさなため息をついて無線にぶつぶつと報告をしはじめた。頭上にいるラファエロには気がついていない。後から入ってきたもう一人が部屋を眺めてつまらなさそうに欠伸をした。ざざ、と無線機が音を立てる。二人はぼそぼと話すスピーカーに耳を寄せ、
「水死体だ。女の」
「自殺かな」
「自殺だよ。きっと橋からおちたんだ」
 壁につっぱった足がずるりと滑る。包帯から染みだした血液が、玉になってしたたり、警官の鼻先をかすめる。気がついてうえを見上げた一人と目が合った。驚いたそいつの足が整列したフダをドミノみたいに倒し、腰の拳銃に手をやった。
 ラファエロはすぐさま飛び降りて警官たちを力任せになぎ倒した。もみ合い、起き上がるのにも手間取っている警官2人をそのままにラファエロは部屋を飛び出し、長い廊下を抜けて階段のてすりを掴んで飛び越えた。一階に着地すると丁度帰ってきたらしいアパートの住人がびっくりしてラファエロを見る。ラファエロは何事もなかったように立ち上がると深く頭を垂れて、外に出た。数台のバイクが目の前を通り過ぎていった。道路脇に無人のパトカーが停まっている。身を隠しながら路地裏に入ると馴染みのマンホールからはしごを下った。
 下水は、何日も続いた日照りのせいで水かさが減り、足を僅かに湿らせる程度の勢いしかなかった。頭上を過ぎるマンホールを数えながら歩いていると、ぱしゃぱしゃと水を跳ねる気配がした。すぐ隣を聞き慣れた弟の甲高い笑い声が通り過ぎる。思わず足を止めて見回すが求める姿は見あたらず、薄汚れた煉瓦のアーチが続いているだけだった。ラファエロは深く呼吸をして、右へ左へと複雑に続く水路を歩きつづけた。よく知っている道のはずなのに、突然行き止まりになったり、流れてきたゴミに足をとられて汚水に頭を突っ込んだりするばかりで同じ通路から出られない。ならば地上を行こうと日の光が差し込む場所から上を見上げると、最初に降りてきたはずのマンホールがそこにあった。ラファエロは自嘲した。
 またさっきの笑い声が聞こえてきて、ゆっくりと振り返る。誰もいない。声だけがあちこちに響き渡っている。とっさにポケットに手を入れるがもうなにもない。深く息を吸って、濁った水底にじっと目をこらしていると、突然、どんと強く背中を押され重心を失って手をついた。汚れた指が、白色のつるつるとした表面をなでる。
 足元はリノリウムの床に変わっていた。静まりかえった真四角の部屋だ。はめ殺しの小さな窓が一つあり、壁一面に設置された換気用のファンが轟音をたててまわっている。アルミの長机が部屋の端から端まで整然と並んでいて、それぞれにジッパーつきの大きな黒い袋が寝かされていた。
 袋は、丸太でも入っているのかやけに膨らんでみえた。時計回りに一周しながらそれを眺め、中の一つに手をかけた。慎重にジッパーを降ろしていくと、袋の隙間からむわと湿気が立ち上り、熟しすぎた果物に似た匂いがただよってきた。顔を近づけるといよいよ耐えきれないほどの臭気になるが、袋の隙間からわずかに覗いたものを見て、追い立てられるようにジッパーをおろした。
 白く色の抜けた、蝋人形のような体が現れる。白熱灯に焼かれた皮膚はぬらりと光り、全身が水を含んではちきれそうなほどふくれあがっていた。
 そいつは、のっぺりとした丸い頭部を持っていて目鼻立ちははっきりとしないが、だらりと落ちた手の指は三本、まっすぐ伸びた足の指は二本、背中には亀みたいな甲羅を背負っていた。その背中はところどころが陥没し、亀裂が入り、大部分が剥がれて、いままで触れたこともないような柔らかい中身が解体された魚のように眼前にさらされている。
 ラファエロはせりあがってくるものを堪えきれなかった。咽がしまって息ができず、全身からどっと冷や汗が出た。飽きるほどえずいて空気の塊を吐き出しながら、あられもない、もうぐちゃぐちゃのすえた匂いのするそいつの肩口に額をこすりつけた。重力にあらがえずぐにゃりと落ちた頭部から、ペンキで塗ったように青い布地がぶら下がっていた。
 叫び声がして、ラファエロはぼんやりと背後を振り返る。いつのまにか白衣姿の人間たちが集まって、真っ青な顔でこちらを見ている。
 がたいの良い数人が進み出てきて彼から引き離された。ラファエロはめちゃくちゃに暴れて拘束から逃れ、再び彼を手にしたがそれはもう兄弟でもなんでもなく、真っ白い顔をした、ただの見知らぬ人だった。
 驚いてそれから離れ、ラファエロはあたりを取り囲む人間たちを押しのけて走った。長い廊下の先にある階段を駆け上ると、広い病院の受付に出た。列を作る人の群れを構わず突っ切り、病院を抜け出すと、口いっぱいに夜の冷たい空気を吸い込んだ。道行く人々が立ち止まって空を見あげている。腹のふくれたような月が空にかかっていた。サーチライトをのせた報道ヘリが頭上をいくつも通り過ぎていった。ビルの頭が燃えている。
 ラファエロは路地裏に回って非常階段を駆け上った。港の方から火の手があがっていた。ふだんは人気のない屋上にたくさんの人が集まって、赤く燃えさかる空を前に恍惚とした表情を浮かべている。あちこちからサイレンが聞こえ、ラファエロは路上駐車を避けながら進む消防車と併走して走り出した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 クラクションが止む。
 砕けたガラスをかき混ぜる音がする。
 ひらいた口に暖かいものが流れ込み、意識が引き戻される。思わず吐き出したのは唾液混じりの薄赤い血で、頭をもちあげると目や鼻の中にまで侵入してきた。慌ててふるい落とすが流れはとめられない。じわじわとマスクに染みだして、鮮やかだった青色のマスクを赤いまだらに変えていく。
 痛む体を起こした。握っていたはずのハンドルに足が乗っかっていた。ガラスは粉々に砕け、夜の冷たい風が車内を通り抜けていく。
 積み荷が転がる音に混じって苦しげな呻き声が聞こえてきた。はっとして、からみつくシートベルトから逃れ、ひしゃげた座席の隙間から腕を伸ばす。ガラス片を踏み、行く手を妨げる天井を甲羅で押し上げようともがくが、横倒しになった車体は軋むだけでびくともしない。
「レオ、レオ」と荷台からか細い声がして、レオナルドは痛いほど腕を伸ばしてあたたかな兄弟の手をたぐりよせた。
「ドニー、動けるか」
「僕は大丈夫・・・マイキーがおかしいんだ。どこか打ったのかも」
「後ろから出られないか」
「やってみる」
 掌は一度ぎゅっと握りしめられたあと、名残惜しげに離れていき、すぐに車体を軋ませる音と焦ったような息づかいが聞こえてきた。宙に浮いたまま彷徨うレオナルドの指先が、いつも少しばかり体温が高めの兄弟の頭にたどり着く。
「ミケランジェロ、起きろヒーロー、靴はまた新しいのを買えばいいんだ」
 囁きながら柔らかい皮膚をつついたり引っ掻いたりしていると、突然、くんと首をとられて仰け反った。血染めのマスクの端を外から引っ張られている。地面に立つ黒ずくめの足が見え、そのままものすごい力で車外へ引きずり出された。
 
 
 ドナテロは未だ目覚めぬ弟を車から引きずり出して、辺りを伺った。コンクリート造りの廃アパートばかりで人の住んでいる気配がない。倒れたワゴン越しに、奮戦するレオナルドを見つけ、まずいよこれはかなりまずい、とつぶやきながら背負っていた鞄をひっくり返して使えそうなものを探した。散乱した中から、ワイヤーのリールとガムテープを手にすると、再びワゴンに戻ってまるまった毛布に手を伸ばす。掴んだ拍子に毛布の中から幾つも転がり出てきたのは倉庫から失敬してきた手榴弾だった。ドナテロは一式を毛布にまとめて抱えると、転がる弟の甲羅のへりをつかんで引きずった。
「こいつ・・・食べ過ぎっなん、だよっ」
 廃アパートの裏口を足で蹴りあける。ぱっと全体を見回し、ミケランジェロを床に転がして息をついた。壁にあるスイッチを降ろすと、かろうじて残っていた蛍光灯が頼りなくあたりを照らしだした。吹き抜けの広いロビーがあり、足の折れた椅子やテーブルや空の植木鉢が転がっている。壁の塗装は剥げおち、電気のメーターやケーブルが剥き出しになっていた。エレベーターがあるが、扉は開きっぱなしで中には真っ黒な空洞があるだけだ。その隣に細いスチールのらせん階段があった。古いコンクリートの支柱をぐるりと囲うように上に向かっている。ステップに足をかけるとぐらぐらと揺れた。ドナテロは階段下の掃除用具入れにミケランジェロを押し込んで扉を閉め、そのまま古い階段を駆け上がって屋上へ出る。
 小さな屋上だった。部屋の数だけあるだろうテレビ用のアンテナが幾つもあった。そう遠くない距離に建設途中のビルの鉄骨がそびえている。端までいって階下を覗きこむと、両手に刀を構えて男と対峙するレオナルドの姿が見えた。
「レオ!!」
 レオナルドが気がついて上を仰ぎ見る。彼は了解の意を示す代わりに刀の先を降ろして、かかってくる男を受け流しながらアパートに向かってきた。
 ドナテロは持っていた毛布をひろげて中身をあけた。ばらけた手榴弾をとって輪ゴムを外し、ガムテープの粘着面に並べて貼りつける。リールから引き出したワイヤーを並べた手榴弾の安全ピンの輪の部分に連続して通す。同じものを何個か作ってすべてを一本のワイヤーに繋いだ。ガムテープ同士がくっつかないように端を摘んでぶらさげながら屋内へまい戻る。
 屋上から少し開けた踊り場の手すりにワイヤーの端を結ぶ。どんと地響きがしてアパートが揺れた。階下を見下ろすと、レオナルドが後を追ってきた男の背中に掴みかかっているところだった。ドナテロは持っていた手榴弾を階段を支える支柱に巻き付け、ガムテープできっちりと固定する。それを繰り返しながらやっと一階まできたとき、近くで声がして、形の良い兄の甲羅が飛んできた。受け止めきれずに二人して階段を転げ落ちる。
 ドナテロは腹の上で唸っているレオナルドを抱え起こした。血色に染まったマスクごしの瞳が焦点を失ってゆれている。刀だけは離さない腕には深い裂傷がいくつもみてとれた。ドナテロはレオナルドを片手で支えながら棒を引き抜いて構えた。長い腕がレオナルドに伸びるのをたたき落とす。何度か繰り返すと男は焦れたように棒の先を掴んだ。前のめりになって、思わず棒を持つ手を離してしまう。男が鉄甲を振り上げる瞬間、ばこんと奇妙な音がロビーに響いた。床に溜まったほこりが舞い上がり、耳に痛い金属音と共にひしゃげた鉄製の扉が飛んできて男をなぎ倒した。ひゅうっと口笛が響く。
 白い霧の中に真っ直ぐ伸びる緑色の足。ばたばたとモップやほうきが床に散らばった。掃除用具の山の上でミケランジェロが綺麗にあがった足を戻し、唖然とする兄達に向かってにんまりと笑ってみせる。ドナテロは自分の武器を拾うと、その先でミケランジェロの頭をごんと叩き、うなだれるレオナルドの腕をとって肩に手をまわす。なんだよ助けてあげたのに、とミケランジェロは大げさに痛がってぼやきながら、ドナテロにならってレオナルドを支えた。
 下敷きになった男の手が扉を押しのけて起き上がるのがみえた。男の輪郭が消えかかる白色灯のなかでゆっくりと線を結ぶ。その頭は食べかけのピザみたいに半分が欠け、もう意志の欠片もない呆けたような顔が三人を見下ろしていた。
「・・・こいつロボットかなんかじゃないの」
 ミケランジェロが呟いた。足元に落ちていたワイヤーのリールを掴んだドナテロが、階段の上を指さした。三人は支え合いながら階段を登り、男はその後を半ば這うようにしながらついてきた。
 屋上前の踊り場まで来ると、ドナテロは手に持ったワイヤーをたぐり寄せて引っ張った。ぱぱんと火薬がはねて土煙が舞い上がる。ドナテロは間をあけずにワイヤーを引き続けた。柱に仕掛けた手榴弾のピンが次々と外れ、爆発がおこる。男は舞い上がる噴煙に巻き込まれ、飛んできた鉄片を全身に浴びて転げ回った。コンクリートの支柱が折れ曲がり、階段が崩落する。身を寄せ合う三人のすぐ横を天井の梁が幾つもかすめていった。強い風が吹き込んで頭上に夜空がひらけた。
 階段は、彼らのいる踊り場を残してなくなっていた。地響きが続きアパートが傾きはじめる。レオナルドが屋上に続く扉をあけて、兄弟たちを促した。ミケランジェロが後に続き、ドナテロは冷たくなった額を拭って残ったワイヤーをたぐり寄せようとした。ふいにピンとワイヤーが張り詰める。引っ掛かったのかと、離そうとした手が突然に強く引っ張られて前に倒れ込んだ。絡まったワイヤーが持つ手に巻き付き、ドナテロの体はあっという間に踊り場のふちへ引きずられていく。
 事態に気がついたミケランジェロが落ちるドナテロの足を掴むがとめられずに体が落ちる。レオナルドがミケランジェロの甲羅を掴むがとまらない。ミケランジェロが浮いた手摺りに足を絡ませ、レオナルドが刀を突き立ててやっと、とまった。レオナルドが掴んでいた甲羅を引き寄せると、ミケランジェロはますます強く足を手摺りに絡ませながら苦しい息の下、
「・・・っレオっ・・・ドニーが、や、ばいかも」
 レオナルドは支える手はそのままに下を覗き込んだ。階下からワイヤーを引っ張られている。逆さまにぶらさがるドナテロの、浅い引きつった声が聞こえてきた。両手に巻き付いたワイヤーがドナテロの手首に食い込んで皮膚が裂け、夥しい量の血が流れていた。
 きいいと音を立てて張り詰めるワイヤーを、黒い血が伝い落ちる。ワイヤーがくくりつけていたてすりごと外れて、ぐんと引く力が増す。皮膚がめくれ、ついには骨まで食い込みそうになって、ドナテロは悲鳴じみた声を上げた。つられてミケランジェロの体もずり落ちはじめる。
 レオナルドは突き立てた刀を引き抜いた。ぎゅっと目を閉じたまま耐えるミケランジェロの甲羅を叩いて踊り場のふちに立つ。はっと見開かれた青い目と視線が合ったが、レオナルドは構わずに地を蹴って飛んだ。空中でワイヤーを断ち切り、白く煙る階下へ正面から突っ込んだ。ミケランジェロの叫ぶ声がする。見上げた夜空に、細いワイヤーが波をうってひらめいた。
 
 
 レオナルドは両腕で頭を庇い、体を小さく小さく丸めて瓦礫の山へ落ちた。足場が悪くて転げても逆らわず、倒れるに任せた。それでも衝撃はすさまじいもので、体のあちこちをぶつけ、朦朧となりながらごろごろと転がって石くれの山をくだり、甲羅が溝にはまってぐったりと仰向けになる。かろうじてわかる刀の感触を引き寄せようとするが、手足がどこを向いているのかも分からず、無防備な腹を晒して浅い呼吸を繰り返すだけだった。
 台風の目みたいな星空を横切って、誰かが顔をのぞき込んできた。しいしいと笑う声がしたが、レオナルドは威嚇に似た息を吐き出すことしかできない。そいつはじっと背中をまるめて呟いた。
「なにやってんだおまえ」
 レオナルドが目を見開くと、覆い被さる彼は、黒いフードの向こうから鳶色の目を静かに細めて横たわる兄弟を見下ろしていた。驚きを隠せないレオナルドに、彼が再び口を開きかけたとき、すぐ近くでまたあのしいしいと笑う声が聞こえてきた。
 彼は懸命に体を起こそうとするレオナルドを制し、崩れ落ちる瓦礫の山に目をやった。枯れ木のように細長い背中がむくりと起き上がるのが見えた。彼はレオナルドの顔をまたぎ、あきれたようなため息をつく。
「またあんたか」
 起き上がった男の無残な姿に、顔をしかめ、穴だらけのジーンズにひっかけていたサイを引き抜いて構えた。それを見た男はごぼこぼと喉を鳴らして、まるで主人をみつけた犬みたいに吠える。彼もなぜだか嬉しそうに答える。
「ああ、今度は最後まで相手してやるよ」
 サイの先で被っていたフードを払いのけた。薄闇の中で燃えるようなマスクが映える。仰向いたレオナルドの頬にぽつりと大粒の血がしたたり落ち、頭上をぐすぐずに血にまみれた足が通り過ぎていった。喉や腹やすねに暖かく伝うものを受けて、レオナルドはあえいだ。
「行くな」
 レオナルドはそう言ったつもりだった。
 けれどまともに話せていなかったかもしれない。
「行くな、ラフ」