声がした。ぞうきんみたいな布が折り重なっていて、人間の匂いがした。新鮮な空気を求めてラファエロは起き上がった。空はなく、どこを向いても真っ暗闇で空気は湿気ていて呼吸ができず、這うようにして出口を探す。押し合いへし合いしている人の肩か頭か腕の中を、あてもなく泳いでいると、誰かがしゅぼ、とライターの火をつけた。赤茶けた人間の顔が何十も浮かび上がった。火は人から人の手に渡り、ラファエロの方へとやってくる。四方を壁に囲まれた、ごく小さな部屋に、寝ころぶ隙間もないほどの人間たちがいた。ぎょろ目で耳の大きい青年が、粉のふいた頭をかきかきライターの火でラファエロの全身を隅々まで照らしだした。人々は自らの咽を掻きむしるラファエロの姿を見て、少したじろいだものの、火はまた何人かの手に渡って、傍にいた者が順々に、狭い中、重たい甲羅を頭上に持ち上げて、部屋の隅まで運んでくる。頬にひんやりとした空気を感じて、ラファエロは求めるままに壁に穿たれた小さな穴から流れ込んでくる空気を吸った。酷い頭痛がして、全身が地面に縫いつけられたように重かった。ぞうきん臭い布をかけられて、重たい体をたくさんの手がさすりはじめた。その場にいた人々がただ黙って枯れ木の様な手で、ラファエロの体をさすり続け、しばらく経つと手足に針を刺すような感覚が戻ってきた。同時に激しい痛みも襲ってきた。
 飛び上がって涙するほどの痛みに、体を震わせた。じっとしていられずに上半身だけ持ち上げて、またふらふらと倒れ込むというようなことを繰り返した。特に左の足は、足首から先がなくなったような気がして隅々まで触って確かめた。つま先はぬるついて全体は柔らかく、肉はぎざぎざにむしれていた。ラファエロは足とジーンズとベルト、それからひっかけてあるサイの感触を確かめて、自分の甲羅の溝と腹と胸と、顔にはマスクがしっかりと巻かれているのを確認し、目を開いた。となりでまるくなる子供の姿が見えた。髪の毛はまだらで頭部が異様に大きく、それなのに体は骨に直接皮がついたみたいに平たかった。ぴくりとも動かないのをしばらく眺めた。半分だけ開いた灰色の目が見ていた。がばっと跳ね起きて、鉄の壁に肩をぶつけた。息をするたびむせ返った。裸同然の人間たちが肩を寄せ合い、何かぼそぼそと話し合っていた。さっき、ラファエロを火でもって照らした青年が近寄ってくる。前屈みの、猿みたいな動きかたで隣へやってくる。白く乾燥した唇を持ち上げながら早口で話して、びゅうびゅう音をたてて笑い、ラファエロの肩を叩く。まわりの人間たちもつられて笑いながらラファエロの甲羅をしつこく叩いたり服をまくったり、マスクをずらしてその下を見ようとしたりした。体をひねってふりほどく。誰かがライターをつけて、肌がやけそうなほど近くに持ってくる。連なる黒目に光が宿り、くすくすと笑う声が波紋のように広がっていった。「なにがおかしい」ラファエロの文句は彼らの話すものに比べると軽く、上品にお礼を述べているみたいに聞こえた。人間たちはますますおかしそうに手を叩いた。
「なにがおかしいんだよ!」
 そこへ突然かちん、という音がして、全員示し合わせたように押し黙る。ライターの火が風にかき消され、暗闇の壁に光の筋が入る。縦に立つその線が横へゆっくりと広がって、冷たい風と、濃紺の夜空が覗いた。全員ぴくりとも動かなかった。何十人もの人間が息を殺して気配を断ってマネキンみたいになっていた。夜空は壁にかかった絵のように全員の前に開かれていった。細い月がみえ、輝く星は空全体にまぶされていた。
 ぼっと見ていた彼らの前に人影が立つ。扉を大きく押し開き、影は鋭いささやき声を発した。ぴくりとも動かなかった人々が突然歓喜の声をあげ、影は、しっとそれらを制して彼らを外へと追い立てる。月明かりに照らされた黒い髪が、右へ左へと舞い散るのがみえた。白い肌が汗で光り、剥き出しの膝は黒く汚れ、小さな顔の半分は紫色に腫れあがって唇は紅をひいたように赤い。見慣れたショルダーバッグと、背中には長い猟銃が一丁。使い慣れていないのか、ベルトが体にあっておらず、動く度に銃身が五月蠅く上下する。
 せまいコンテナの中だった。女は白っぽい目で後ろを振り返り、辺りに誰もいないのを確かめたあと中にいる人間を引っ張り出しはじめた。途中からラファエロを散々殴ったあの男が現れて女を手伝い、動ける者は全て外へ出された。残ったのは平たい体の子供と、ラファエロだけだった。男はちらと中を見回して、女に何か言い、脇に抱えた小銃を持って消えた。
 痛みに汗をかいていたラファエロは女と目が合った。唸る声だけが響いていた。おびえきった彼女の目が外と中とを交互に見たあと、コンテナの中へ入ってきてラファエロの腕を掴む。ラファエロがうまく立てずにいると、女は白い息をはきながら鋭い声で「お願い」
 そのままラファエロを力任せに引きずって外へ出そうとしたが、にわかに外が騒がしくなり、女は扉を静かに閉じて息をひそめた。すぐに頭上からだんっという足音。足音は一旦その場で止まり、たん、たん、とゆっくり歩いて端まで行ってくるりと方向を変え、また、たん、たん、と歩いて今度は壁面の梯子を下りてきた。女は扉に額をつけて音を立てないように背中の猟銃を降ろす。銃を持つ手が震え、マニキュアのついた指が弾を装填するグリップを探して彷徨う。扉がゆっくりと開く。突然背後からしゅぼっと音がして明るくなる。
 いつからいたのか、ぎょろ目の青年が驚いたような顔でライターをつけている。女の指がとっさに引き金を引くが、ぱちんっと小気味よい音がしただけで弾は発射されず、扉の隙間からぬっと出てきた黒い手には拳銃があり、銃口は女に向けられた。ぱ、あん! とどこかで銃声があがって、ラファエロは女を押しのけ銃を持つ手に飛びかかった。藻掻く体を押し倒し、甲羅を下にしてひたすら押しつけていると、ぶくぶくと水音をたててそいつは静かになった。押さえつけていた手を離してぐったりと横たわると、服を掴まれ、ごろごろと体を転がされるようにして外へ出される。
 ぶおーん、と汽笛が鳴って、ラファエロは苦しい息を吐き吐きなんとか立ちあがった。全身汗だくになった女がなにやら話しけてくるが、ひとつも聞き取れなかった。潮臭い風が頬を撫でた。鉄と木のしなる音がした。眩しいほどの白熱灯の中に、積み重ねられたコンテナの群れが見えた。頭上には巨大なガントリークレーンがそれらを跨ぐようにして立っていて、ワイヤーにぶら下がるフックが強い潮風に揺れていた。
 ラファエロは海に浮かぶコンテナ船の、積荷の上に立っていた。よくある客船とは違い、船の底が深く穿たれていて、中に何百というコンテナが行き先ごとに区分けされ、均等にバランスを保つように置かれていた。その山の隙間を縫うように板張りの通路がしかれてあり、そこを黄色いレインコートを着た水夫と、黒服の男たちがゲームのコマみたいに行き交っていた。あちこちで火花が飛び交い、がしゃんと音をたて、通路を照らす白熱灯が次々と割れる。ぶおーんとまた汽笛が鳴って、ラファエロは痛む頭を抱えた。背後に突き立つ巨大な煙突から、灰色の煙が立ちのぼっていた。船の舳先は真っ暗で何も見えず、波が船体を忙しなく叩く音がして、ラファエロが苦しい息をしながら首をめぐらせると、すでに遠くなった港の灯りが見え、丁度船の真横を、ハロゲンライトで神々しく照らされた女神像が通り過ぎていくところだった。深い陰影を刻んだ女神の目がじっと見下ろす。
 咽が大きく、ぜえ、と鳴った。港は暗い暗い海の向こうでぴかぴか輝いていた。海上をいくコンテナ船の上に立っているのを遠くから見ていた。頭の中ではラファエロの足は全力で駆けていって海へ飛び込んで港へのクロールをはじめていた。ノイズキャンセラをかけたみたいに鼓動だけが耳元でする。もうとっくに陸についてもいい頃なのに、まだコンテナにいる。
 ふいに伸びてきた細い腕の、骨ばかりの指が銀色のライターを握りしめていた。指がライターについた回し金を擦ると白い火花が散った。ラファエロの顔の近くで突然ぼっと火が点いて、それは風に吹かれて真横に倒れながらちらちらと近づいてきた。火が舐めるようにラファエロの頬をゆっくりなぞり、しばらくするといてもたってもいられなくなって、その手をたたき落とした。「……ちっ」と声が出て頬に触れると、皮膚が熱く火照っているのを感じた。目をやると、ライターを持った青年がにやにや笑ってこちらを見ていた。その手がなれなれしく肩にかかるので、ラファエロはかっとなってふりほどく。青年は益々笑みを深くしてのけぞるラファエロの腕を掴んだり、甲羅をばんばん叩いたりする。服の裾にしがみついて離れない青年を乱暴に振り回す。そこへ、ぱんっと足元で火が爆ぜて、女は手にしていた猟銃のグリップをスライドさせ、空いた手でラファエロの手を強く握った。ラファエロは笑み顔の青年を引きずったまま、女に連れられコンテナの上をよたよた走り始める。折れそうな彼女の腕は、ラファエロの武骨な三本指と手と手を繋ぎ、コンテナからコンテナに飛び移るときには一緒になって、二人と一人は船の舳先へとひた走っていった。
 レインコートの水夫たちは、突然乗り込んできた黒服の侵入者にボートに使うオールや、工具を持って対抗していたが、銃声が一発響く度一人、また一人と倒れて残った者はみんな機関室に逃げ込んだ。侵入者はその背中を構わず撃った。小気味よいほどに人が倒れた。怒号が飛び交い、水夫を撃った男は別の誰かに撃たれ、そのときに焦点を外れて跳ね返った弾が機関室の窓を真っ赤に染めた。
 船の舳先へ向かってひたすら走っていたラファエロは、急に体が軽くなるのを感じて振り返った。青年が落ちたライターを拾おうとしていた。つられて立ち止まると繋いでいた手が解けて、コンテナのはしごに足をかけていた女がはっとした顔でラファエロに白っぽい手をのばしてくる。ラファエロは青年に呼びかけたが、ぽかんと間の抜けた顔をするだけだ。ごうんと風が吹いて、青年は身を低くしてコンテナにしがみついた。ミュータント! と呼ぶ女の声がした。ラファエロは青年をそのままに、するするとはしごを滑り降りた。下につくと女と再び手と手を繋ぎ、甲板をだっだっと走って船の舳先へやってきた。三角の舳先には巨大な係留ロープのウィンチが備え付けられていて、その裏側に、ぼろをまとった人間たちが隠れていた。彼らは息を殺し、錨を通すために船体に開けられた穴から、一人ずつ外へ這いだしているところだった。列を仕切っていたのは浅黒い顔のあの男で、男は、連れだってやってきた二人の姿を見ると顔をしかめて黒い唾を吐き、小銃の先でラファエロと女が繋ぐ手を引き離した。
 舳先の穴から下を覗くと、黒い波間に一台のボートが浮かんでいた。突き出た錨に縄ばしごをかけて船とボートを繋ぎ、降りてくる人々を乗せていく。小さなボートはすでに満杯で、ひとり船頭が立ってオールを振り回し、乗り込む人々に暴れないように言って聞かせている。女は、ラファエロの肩を叩いて、ボートを指さして、その手でぎゅっとラファエロの胸元を掴んで、何か言った。それから光のない遠い海のほうへ顔を向け、水をかいて泳いでいくような仕草をした。
「俺はいかない」
 考える前に口に出た。隣りにいた男が、それみたことかと言う顔をしていた。女は男を睨み付けると、ラファエロに向き直り、両手でラファエロの顔を掴んで首を左右にふった。ラファエロは答えなかった。女の手が頬を叩いて、唾を飛ばして訴えたが、ラファエロは「俺はいかない」。女はきつく眉をつりあげた。ショルダーバックをあけて、ビニール袋を取りだした。中にはピンクの錠剤がぎっしりと詰まっていた。女はそれをラファエロの胸に押しつけた。ラファエロが受け取らないでいると白い顔を益々白くしてビニール袋をラファエロの胸にばんと叩きつけ、男と二人して穴に向かっていってしまう。
 ラファエロはざらざら音を立てる袋を蹴りとばした。袋は舳先の柵にぶつかって軽い音をたてる。舳先の向こうはタールをひいたような海か空で、水平線は見えない。
 叫び声がして、ラファエロが甲板を振り返るとあの青年がコンテナのはしごを踏み外して足をばたつかせていた。ラファエロはロープを掴む女に呼びかけたが、女はそのまま降りていってしまい、残っていた男の方が振り返って頭のそばで指をぐるぐる回転させてみせる。ラファエロは黙って、ロープのまかれたウィンチを飛び越え、コンテナのはしごを登りはじめた。頭上でばたばたいう青年に落ち着けと声をかけながら、肩に両足をつかせてやった。すると青年は何を勘違いしたのか、ぱっと両手を離してしまう。肩に乗っていた足がずるりと滑り、ラファエロはとっさにその体を抱き留めた。腰を掴まれぶらんと逆さまになった青年は、両手にライターを握りこんでいる。
「そいつを離せ!」
 ぐらぐらと揺さぶって呼びかけるが、青年は余計に暴れだす。感覚のなくなったラファエロの足がはしごを滑って落ち、その拍子にがつんっとバーで顎を打った。口の中がしょっぱいもので溢れる。汗の滲む視界に、紺色の影が落ちた。見上げると、細長い体の男が、細長い両手から黒いものを滴らせてコンテナの上からこちらを覗き込んでいるところだった。はしごを掴む手が離れ、ずだん! と甲板に落ちた。強く体をうちつけた。痛みと混乱が景色をマーブルに染めて、その真ん中を真っ赤な影が両手に尖るナイフを振りかざし、舞い降りてくるのが見えた。スローモーションのような光景に、突然ぱっと赤が散って、ラファエロは意識を取り戻す。上から飛びかかってきた鉄甲の男が、はじけ飛んで甲板を転がっていくところだった。振り返ると、猟銃を構えた女が仁王立ちになってそこにいた。銃口から白い煙が立ちのぼり、照準をみつめる女の目がラファエロを捉えて、ちらと横にやられてまた戻る。女の手ががちゃんと弾を装填する。ラファエロは床に突っ伏したままの青年を引きずって、舳先まで連れて行き、すでにはしごを取り外しにかかっていたボートに向かって海に放った。しばらくあって、長い悲鳴とぼちゃんという水音。甲板に倒れていた男が、肩から血を流しながら音もなく立ち上がる。
 どん! と銃声がして、男は体を弓なりに反らせる。女は落ちた薬莢を蹴飛ばし、前に出て銃を構える。怒りに燃える目が男に注がれていた。騒ぎを聞きつけて、複数の足音と、ぱちんぱちんと木の実が落ちるような銃声のあと、ぱぱん、と女の腕のあたりで火が爆ぜた。がるんとエンジン音がし、停泊していたボートが大勢の人間を乗せて動き出した。
 女は左腕をだらんと垂らしながら、まばたき一つせずに銃のグリップを引いた。ラファエロはウィンチを飛び越えようとして、足を滑らせた。堅いものが甲羅にすり潰される感触があった。甲羅の下でビニール袋が破け、黒いニス塗りの甲板が粉まみれになっていた。
雨のように散弾が降り注ぐ。女の服がはだけて赤いレースの下着が顕わになる。体が折れ曲がって腹部が黒く濡れ、提げていたバッグの紐が切れて、ラファエロの方へ転がってくる。中身が散らばって、化粧ポーチから口紅が飛び出し真ん中からぽきりと折れる。女は膝をついて、濡れて落ちるざんばら髪を潮風になで回されながら腕一本で猟銃をとり、銃底をももに押しつけて装填する。黒い影が彼女を取り囲む。彼女はつきたてた猟銃の口に細い顎を乗せる。黒い髪が彼女の顔を包んで見えなくする。甲板に落ちていたビニール袋を掴むと中からピンクの錠剤があめ玉みたいに零れてくる。どん、と、音と、白い発光があって、眼下に広がる人気のない交差点や溢れたゴミ箱、アスファルトの公道と道路標示、その中央にそびえる高架鉄線の支柱にゆっくりと焦点が合った。誰かに呼ばれた気がしたが誰もいなかった。動く度に赤と黄色の火花が飛んで明滅を繰り返している。燃えさかる火の海が見え、あちこちでサイレンが鳴っていた。頭上をゆくヘリと、誰のとも区別のつかない声が反響するなかで耳を澄ませたが、自分を呼ぶ声ではなかった。
 突然後ろ頭を強打され、振り返ると長い両手を振り上げた鉄甲の男が向かってくるのが見えた。体をねじって避けると、男は真正面から積まれてあった鉄材に突っ込み、一度バウンドしてから地面に転がった。ブルーシートと鉄の林に囲まれていた。ラファエロは男の襟首を掴んで突き出したコンクリートのへりに力任せに叩きつける。男はううんううんと唸りながら、魚みたいに跳ねまわる。頭に巻いていた包帯がほどけて、落ちくぼんだ目元が顕わになる。腫れた瞼をホチキスでとめただけの乱雑な傷口が。
 声がした。風のせいだか、全体が傾いたような、揺れる巨大なクレーンが、がつんがつんと壁にぶつかってうるさい。
 
 
 
 レオナルドが目を覚ますと瓦礫の地面に点々と、黒い足跡が続いていた。ぱっと花みたいに散っているのや、まだ生乾きでへばりついているものもあった。傾いたまま風に吹かれている裏口には引っ掻いたような痕がある。落ちていた刀を拾って収めようと甲羅に手をやったが鞘は帯ごとなくなっていた。
 足跡は一旦外へ出て、道の向こうで途切れていた。向かいには、建設途中のビルがあり、黒いメタルの林が夜空を貫くようにして建っている。
 白む頭に自分の頬を張って意識を戻し、あたりに耳を澄ませる。喧噪に混じってどこからか人のすすり泣くような声がした。レオナルドは騒がしい通りの様子を伺いながら外へ這いだして、音の出所を探した。影に身を隠しながらすでに鉄の塊と化したワゴンまでやってくる。声は中から聞こえていた。レオナルドは中途半端に開いたバックドアから中を覗いたが、誰もいない。体を滑り込ませ、ひっくりかえった荷物の山を掻き分けた。だんだんと音が近くなり、携帯用のケーブルや簡易食料の下から出てきたのはワゴンに備え付けられた無線機だった。手に取ると波のようなノイズがスピーカーから漏れ聞こえてくる。受信と送信のスイッチを切り替えるが、変化はなく、ぶつぶつと歯切れの悪い音をたてるだけだ。上についた緑の受信ランプが点滅を繰り返す。レオナルドはそれを持ったまま外に出てスピーカーを耳に当ててじっと聞き入った。ぱつぱつぱつと連続してランプが点滅し、歯ぎしりに似た音がした。そして遠くのほうで、
『……う……ない、……お』
 というのが聞こえた。けれどすぐに雑音に戻ってしまう。
 道に停まったはしご車から数人の消防士が降りてくるのが見えた。彼らはみるからに重そうな銀の防護服を着込んでいて、大声で怒鳴りながら右往左往する。レオナルドはワゴンの後ろに隠れ、人の流れが途切れるのを見計らって、道むこうのフェンスの隙間へ滑り込んだ。
 フェンスをくぐるとそこはもう建築途中のビルの中だった。防錆加工された鉄骨が格子状に組み立てられて空高く伸び、建設用の長大なクレーン車の首がビルの中を抜けて夜空につきだしている。コンクリートの基礎部分に触れるとまだ乾いておらず、水分を含んで湿っぽい。
『しもし……る、……う……な』
 ランプの点滅が減り、さっきよりもクリアに聞こえはじめた。レオナルドは天高く組み上げられた足場のはしごに手をかけると、無線機を腰帯に差し、一方の刀の柄を口に銜え、もう一方は手にもったまま、長い梯子を登っていく。
 真っ赤に燃える港が見わたせた。火の手のあがった倉庫はまだ小さな爆発を繰り返しており、黒とオレンジの塊が幾重にも別れて空に昇っていく。それを見たレオナルドは、いつかドナテロの顕微鏡で見た植物の細胞融合を思い出した。
『……お、……レオどうし……』
 丁度最上階のあたりまで上り詰めたとき、雑音はミケランジェロの声に変わった。思わず口に銜えていた刀を離してしまう。刀はかんかん、と小気味良い音を立てて階下に落ちていった。レオナルドは一瞬だけ下をみやり、一本だけになった刀を慎重に足場の上に置いた。そして自由になった両手で無線機をつかみ、カチカチとスイッチを切り替えながらマイクに向かって呼びかけたが、そっちは完全に死んでしまっているらしく、ざあざあ雑音の振る中、弱々しい声を聞いていることしかできなかった。
『……もいないの、……り、ひとりじゃ……い、どこも、人間が……』
 突然地鳴りがし、レオナルドはなんとか足場まではい上がって身を伏せた。隣にあったアパートがゆっくりと崩落する。テーブルクロスが波打つように白煙が舞い上がり、ビルを覆っていたブルーシートが一斉にはためく。
 空をいくヘリが崩落したアパートにサーチライトを向けた。レオナルドははためくブルーシートの端を掴みよせ、くるまって身を隠した。ライトが通り過ぎると手の中の無線機を握りしめて、崩れたアパートの残骸に兄弟の姿を探した。薄れる白煙と行き来するサーチライトの中に目をこらすが、どこも瓦礫ばかりだ。
 キンっとスピーカーが高い音で鳴く。
『い……! いま………………て!レオ!』
 があんとぶつかりあう音が建物の壁を伝って聞こえた。足場が大きく揺れたかと思うと小粒の石灰が頭上から降り注いだ。大型クレーンの長い首が音をたてて傾き、突然レオナルドの頭上から黒い大きな塊が足場を突き破って落ちてきて、鉄骨のうえを転がり回った。風が吹いて雲を流し、差し込む月光が鉄甲の男の細長い背中と、頭を何度も打ち据えられて砂人形のようなラファエロの姿を浮かび上がらせた。
『……て、ドニーと潜った……がない、車……てくる……がい』
 スピーカーはがなり続けていた。
 レオナルドはスイッチを切り替えて「わかった」と呼びかけた。答えは返ってこなかった。「わかった」もう一度だけ言って、無線機の電源を切った。腰帯を解いて左の掌にまいた。指がしびれて感覚がなくなるくらい何重にも巻いて、端どうしをよりあわせ、外れないように左手に結びつけた。それから右手に刀をとって立ち上がった。
 かんかんかん、と鉄骨がしなる音がする。建設用のクレーンが風にあおられている。足場から身を乗り出すと二人の姿がない。崩れた鉄材の山があるだけだ。
 気配を感じて振り返る。足場に横付けされた階段のステップから人間の頭が覗いている。元が分からないくらいに造形の崩れた顔が、さらし首にでもなったみたいに微動だにせず、そこにある。強い風に巻かれていた包帯がほどけて、落ちくぼんだ目元が顕わになっている。左目はぼたりと垂れたまぶたで塞がれて、端がホチキスでとまっている。真っ白い手が階段のステップを掴んだ。昇ってくる。足の下で恐怖がはい回る。後ずさりながら刀を持ち上げる。意識が信号のように切り替わって、真っ直ぐに掴んでいるはずの刀身がゆらゆら上下を繰り返す。だん、だんだんと長い両手が足場をわし掴み、ぬっと平たい体が乗り出してくる。とっさになぎ払った刃は男の黒髪を撫でつけただけで、レオナルドは足場に引き倒される。全身でのしかかられて息ができずにあえぐレオナルドの口に、指が突っ込まれる。歯の間に親指をいれて、がっちりと固定し、鉄くさい指でレオナルドの口内をまさぐり、逃げをうつ舌を掴んで引っ張り出す。
 苦いものが口いっぱいに溢れる。夢中になって覆い被さる男の口がほら穴みたいに開いて、そこからぶつ切れの舌がちろちろ蠢いているのが見えた。レオナルドは唸って首を振ったり、体をよじったり跳ねたり、噛み切ってしまおうとさえしたが、男はつゆとも感じていないみたいに、錆びたナイフの切っ先を舌のくぼみに押しあててきた。冷たい金属の味がした。切れ味の悪いナイフを雑に上下され、塩っぽい味がしたかと思うと、男が急に背中をブリッジして仰け反る。
 夜空を仰ぐ男の頭をラファエロの手が掴んでいた。力任せに男の体を引き離す。ラファエロは月明かりの下でやや傾き気味に立っている。動きはのろく、顔はでこぼこに膨れあがって赤いマスクは役目を果たすことなく首のあたりでわだかまっている。へたくそな口紅に見えるのは口の端が鉤裂きになってその切れ目が頬まで達しているせいだ。かろうじてサイを握っているが、刃はとうに折れている。男がのびあがってラファエロの服を掴み、引っ張られて限界まで伸びたナイロン生地がジッパーところから左右に裂けてはじけ飛んだ。男はなおも手を伸ばしラファエロの首の皮を捕まえる。握り込まれて緑の肌が深く染め上がる。ラファエロが男の頭を両手でわし掴む。指がホチキス留めのまぶたに触れて、皮膚がまくれて眼球が飛び出す。それでも男は手を離さず、染みだしてきた血液が二人の剥き出しの腕や胸を伝い落ち、ばたばたばたっと地面に降るほどの量になる。
 レオナルドは厚く腰帯を巻いた左手を鞘のようにして輪をつくり、そこに抜き身の刀の刀身を握り込んだ。ブルーシートが風をはらんでふくらんで、その隙間から月明かりがさすと、まるで海の底にいるようだった。ラファエロの首の皮膚が開いて中が少しのぞき見れる。があんと膝をつく音。そのまま崩れ落ちるラファエロの赤い色の、ほどけたマスクが風にまかれて目の前を漂い、その向こうで一仕事終えた男の頭がもちあがってくっきりとその首と胴体の隙間が形を持ったとき、レオナルドはひやっと刀を抜いた。筒にした左手が反動ではね除けられて、華やかな道をつくった。男の胴体はもはや小山のようにそこにあるだけで、レオナルドは抜き出した刀身で飛ばされそうになっていたマスクをくるくるくると器用に巻き取って、収めた。
 
 
 
 
 
 
 デジタル時計の表示が切り替わり、電子音が鳴り響く。事務室の明かりがついて、よれよれの白衣を着た眼鏡の男が入ってくる。部屋には業務用のデスクが一つと、経理係のパソコン卓が一つ、休憩用のソファとブラウン管テレビが一台、壁にはホワイトボードがかかっていて、細かく日勤表がつけられている。男は自分のデスクに積まれたカルテと専門書の山を脇に除けて音のする元凶を探したがみつからずに、デスクの引き出しを開けた。中にはゴム製の骨や毛糸でてきた鼠のおもちゃが入っているだけだ。男はせまい部屋を散々見わたしたあとひっそりとため息をついて、ホワイトボードの下にある棚から、特大サイズの犬猫のエサ袋と、計量カップをとり出した。そして奥の<処置室>と書かれたアルミの扉を開けて中に入る。真っ暗いままの部屋には青臭い動物の糞の匂いが充満していた。あちこちでガサガサと小さなものが走り回る音がする。男はエサを置いて壁のスイッチに手を伸ばした。カチと音がして部屋の換気扇がまわりだす。またカチと音がして蛍光灯が部屋を照らしだした。男は突然の強い光に目を細めた。ふと、左右をケージに挟まれた通路の向こうに誰かがいるのに気がつく。早出をした同僚かと思い声をかけようとしたが、それは明らかに違う、別の何かだった。折り重なるようにして蠢く全身緑色のもの。ひっと声をあげて後ずさった男はエサ袋に足をとられて尻餅をついた。背後で扉の閉まる音がして、振り返ると、いままさにその緑色のなにかが二本足で立ち、三本の指を器用に使って扉の鍵をかけたところだった。そいつは鳴り続ける電子時計を男に投げてよこした。
「止め方わかんなくてさ」
 はっきりと、人と同じようにそいつは話した。明るい色のマスクの向こうで目を細めて笑う。男は震える手で電子時計のロックを外してとめた。
「なんだっ……あんたたち……なんなんだ!?」
 そいつらは少なくとも三匹はいた。時計をよこした一匹と部屋の奥で壁に寄りかかっている一匹と、そのすぐそばで大きなブルーシートを抱えて座りこんでいる一匹。男はがたがたと震えて手の中の電子時計を我が子のように抱きしめた。
「……危害を加える気はない」
 壁に寄りかかっていた一匹が進み出る。そいつの手には黒く汚れた日本刀が握られていた。赤茶けたマスクから覗く切れ長の目がじっと男に注がれる。
「助けてほしい」
 生臭い匂いが立ち込めている。得体の知れないモンスターは、みな戦争でもしてきたみたいに煤と泥で汚れて傷つき、床には砂と血の足跡が幾つもあった。ブルーシートを抱えた紫色のマスクをしたモンスターが、同情するように男にほほえみかけてくる。酷く具合が悪そうで、宙に浮かせた両手首には銀のダクトテープがきつくまきつけてあった。恐怖で固まる男の前で、三匹が互いに促し合ってブルーシートの端と端を持ち、慎重に、神経質そうに中身をあけて見せた。男がおそるおそる中を覗くと、同じようなのがもう一匹いて、そいつは形容しがたいほど酷い姿で横たわっていた。男は震える声で、
「……分かった、救急車を……」
「そいつは無理なんだ。やれる範囲で構わない。頼む」
 刀をもったやつが泥にまみれた刃をみせて、感情を押さえ込んだ平坦な口調で言う。他のどいつを見ても、同じ懇願するような目を向けるだけ。男は気が狂いそうになってぶるぶると首を振り、頭を掻きむしった。
「ここは動物病院だぞ!」
 
 
 
 
 
 
「前と同じだとつまらないから改良するんだ」
「ああ」
「デザインはマイキーに任せようと思って、前もそうだったし」
「ああ」
「ねえ。」
「ああ」
「……意見を聞いてるんだから真面目に答えてよ、バイクだって見た目がどうのこうのって結局いろいろ改造したじゃないか。僕はその手間を省きたいだけだよ」
「あれはオレのバイクだ」
「そうだよ」
「これは、おまえのトラックだろ」
「……そうだけど、」
 ラファエロは今しがた車から外してきたばかりのスライドドアを所定の場所にねかせ、ふうと息をついた。向かいには呆れ顔をしたドナテロが立っている。
 キャンピングカーが五台は入りそうな広いガレージに、分解した車の部品が大きなものから細かなものまで座る場所もないくらいいっぱいに広げられていた。コンクリートの地面にチョークで大まかな区分けの線が描かれていて、置いてある部品には全て番号がふってあり、それらにぐるりと囲まれるようにして中央に座すのは骨組みだけになった一台のピックアップトラック。使い物にならなくなったワゴンの代わりに、解体屋で山積みされていたものをこっそり失敬してきたのだった。
 なるべく新しいものを選んできたつもりだったが、いざ作業にかかると車体は長い間雨風にさらされたために錆の花が咲きみだれ、分解すればするほど穴詰まりや劣化などのハズレを連発してドナテロを気落ちさせた。仕方なくラファエロはドナテロを誘って廃材置き場から、旧世代のやたら大きなディーゼルエンジンをみつけてきた。ドナテロは俄然やる気になって、昨日から二人揃ってガレージに入り浸りだ。
 ドナテロが区分けした部品の位置を変えたり、角度を直したりしながら隙間をぬって歩く。その甲羅に、これからどうするんだと声をかけると、どうしたらいいと思う? と返ってきた。顔をしかめるラファエロに冗談だよと笑って、ドナテロは包帯を巻いた両腕をひらひらと振ってみせた。
「これ、いいよね」
 部品の山を飛びこえたドナテロが一際大きなディーゼルエンジンの前に立って言う。ラファエロは自分の左腕に目を落とした。腕は肘から手首にかけてギプスで覆われ、さらに布で窮屈に固定されていた。石膏の腕に、マジックで大きな→が書かれている。横には一言”見て!”と添えられていて、ラファエロがギプスの隙間に指を入れると、中から四つ折りにされた画用紙が出てきた。
「それなに」
「完成図のスケッチだと」
「なんだ。どんな具合?」
「わかるだろ」
 ドナテロは笑いながら肩から提げていた工具鞄をひっくり返し、中にある工具を銀のパレットにがらがらと広げはじめた。足元に整列したナットの数と、エンジンについた穴の数を照らし合わせる。ラファエロは画用紙いっぱいに描かれた車のスケッチを手に、区分けされた細い通り道を慎重に歩いていった。びっこをひいた足が、細かな螺子を蹴飛ばしてしまうたびかがみこんで直しながらやっとドナテロの隣りに立つと、自分の腰まである巨大な鉄の塊をみて呟いた。
「……こいつはオレたちじゃ無理だ」
 ドナテロは鼻歌まじりに部品の選別をしながら、
「手伝ってもらうよ」
 そこへ、ガレージの扉が開いてレオナルドが顔を出した。突然目の前に広がった光景に驚いて、きょろきょろとあたりを見回している。そして中央でエンジンを前に話し合っているラファエロとドナテロにため息混じりに言った。
「こんなにして、どうするんだ」
「手伝ってよ」
「いまからか」
「このへんまで仕上げときたいんだ」
「今何時だと思う」レオナルドが包帯を巻いた左手の手首を指さした。二人が顔を見合わせるとレオナルドは呆れたように、
「修行の時間だ、いくぞ二人とも」
 そう言って、レオナルドはすぐにきびすを返して行ってしまった。ドナテロは残念そうに工具鞄を置くと、前をのろのろと歩いているラファエロに手をかしながら、ガレージを後にした。
「まだケンカしてるの?」
 途中ドナテロが、ヒソヒソ声で聞いてきた。
「してねぇよ」
「だって、話さないから」
 言われてはじめてラファエロはそのことに気がつく。いつからなのか、きっかけすら思い出せない。
 答えのでないまま道場にやってくると、新しい畳の匂いがした。そういえば今朝レオナルドが少し興奮気味にこのことを話していたのを思い出す。奥の間ではミケランジェロが正座をさせられていて、そばに厳しい顔のスプリンターが立っている。
「どうしたの」
「洗濯当番をさぼったんだ」
 板間で丹念に体をほぐしていたレオナルドが答えた。スプリンターはもうしばらくそのままでいるようにミケランジェロに告げると、ドナテロの方へやってきて言った。
「そろそろ、道具を持ってもいい頃合いかな」
「え、いいんですか」
「レオナルド」
「はい先生」
「ドナテロの相手をしなさい」
 レオナルドが立ち上がり、にやと笑いかけてくる。ドナテロは、お先に悪いねとラファエロに耳打ちすると、壁にたてかけてある棒を手にとってゆっくり回し始めた。
 スプリンターはしかめ面のラファエロに、
「昨日と同じようにしなさい、無理のないように」
「……いつまで遊んでりゃいいんですか、腕がなまっちまう」
 スプリンターは一つ頷いてミケランジェロを呼んだ。ミケランジェロは顔を輝かせ、はいはいっとスキップ混じりにやってくる。
「ラファエロと組みなさい。抑えめにな」
「まあまあオイラにまかしといてくださいよ、おっと、わおすげえ武器だぜそれって日本製?」
「ちょっと黙れ」
 ラファエロはギプスを支えている布を解いて構えた。出だしは軽い受け身と簡単な組み手を繰り返し、体がほぐれてくると、指先を拳に引っかけあって合図する。続けるうちにどんどんハードな型になり、受ける打撃も重くなっていった。調子にのったミケランジェロが合間にいれてくる平手を、全てたたき落としてやると、彼はむっとしたように手数を増やした。ラファエロはそれを力ずくで押し返し、暴れる足を払う。どたん、と音を立ててミケランジェロが尻餅をついた。
 顔をあげると、スプリンターが琥珀色の目を細め、満足そうに長い顔を上下に振っていた。後ろで組合いをしていた二人も手を止めてその様を見守っている。
 ラファエロは大げさに痛がるミケランジェロに、
「ふざけんな、まじにやれ」
「えっなに? どこ? うっそ、この性能でこのお値段?」
「……ったく」
 ミケランジェロは咽の奥でくつくつ笑った。隣で組合いをするドナテロとレオナルドの声が聞こえてくる。棒が空を切る音と、間合いをとって畳を滑る足。こつんこつんと一定の間隔で鳴る杖の音。ラファエロはいやに暗い天井を見上げて息を吐いた。どこまでも続く、どんづまりの天井だった。
 修行を終えると、全員でテレビドラマを見ながら冷凍ピザを食べた。それが終わると、スプリンターとレオナルドは瞑想のために部屋に籠もった。ドナテロは作業机の上のものを押しやって無理矢理スペースをつくり、分厚いメカニックマニュアルを開いて方眼用紙にピックアップトラックの展開図を描き始めた。ミケランジェロは広くなったソファにあぐらをかいて座り、リモコンを連打して100以上あるチャンネルをループさせた。それに飽きると今度は自慢のDVDコレクションを引っ張り出してきて中身を選別しはじめる。
 それらをぼんやりと眺めながらハンドグリップをうならせていたラファエロは、放られたリモコンを手にとってなんとなくニュース番組に合わせた。幾つかチャンネルを変えていると火事の特集番組になった。夜の港が炎に染まる映像を食い入るようにみつめた。粗めの映像は風のせいか左右に激しく揺れ、興奮したようなレポーターの声と、あちこちでうなるサイレンが混ざって何が起こっているのかいまいち分からない。映像が切り替わり、朝日の中もうもうと立ち上る煙と消火活動を終え汗と煤で汚れた顔の消防隊員を映し出した。彼らは現場の様子を伝えたあと、どこか晴々とした表情で被害は最小限で済んだと告げた。
 ラファエロはリモコンをミケランジェロの膝に置いて立ち上がり、壁に並んでかかっていたカーキのコートと毛糸帽を手に取った。その下で山になっている洋服の中からゆるめのジーンズを引っ張り出して、ひきずる足を手で持ち上げなんとか中におさめる。それから入り口近くに立てかけてあった松葉杖をとって歩きはじめると、真っ先に気がついたドナテロが、一緒に行こうかと聞いてきた。ラファエロは答えずに軽く手を振って、慣れない杖をつきつき外へ出た。
 うしろで扉が閉まると辺りは薄暗い闇に包まれ、はい上がってくる冷気にぶるりと体を震わせた。コートの前を合わせ首を引っ込めながらしばらく行くと、地下鉄の線路に出た。終電が過ぎて信号だけが煌々とまぶしく光る道を途中何度も枕木につまずきながら歩いていき、無人のホームから乗り換えに使うコンコースを抜けて、また下水道に入った。地上が近くなると、マンションの配水管に汚水が流れる音や車の振動が伝わってくる。鉄格子の隙間から月明かりがもれ、行く道を細々と照らしていた。ラファエロは通りの街灯を数えて歩き、またいくらか進んだところにある小ぶりのマンホールから地上へはい出した。
 深夜を過ぎた住宅街を休み休み歩いていくと十字路に差し掛かった。向かいの角に一件だけ、明かりの灯っている店がある。古い石造り建物で、門の上には半分消えかけた字で動物病院と書かれている。すでに受診時間は終わっているらしく、入口にはシャッターが降りている。ラファエロはぐるりと裏手にまわり、裏口の隣りにある小さな跳ね上げ式の窓の前に立った。手をかけると窓は簡単に開いた。わずかに空いた隙間から松葉杖を中に放り込み、続いて体をねじ込むようにして中に入る。電気の落ちた部屋の中で小さなものが駆け回る気配がした。水っぽい排泄物と生き物の匂いがする。ラファエロが電気のスイッチを探していると、奥の扉が開いて分厚い眼鏡をかけた細面の男が顔を覗かせた。目が合って、ラファエロがよう、と声をかけたとたん、扉は、ばん! と勢いよく閉じる。閉まった扉の向こうから、もごもごと居もしない相手と話す声が聞こえ、ひとしきり唸って駆け回ったかと思うと急に静かになって扉はまたゆっくりと開かれた。さっきと同じ男が短い赤毛を撫でながら、「待ってたよ」と色味の悪い唇をひきつらせて笑う。
「遅くに悪いな、先生」
 男は忙しなく瞬きしながら、
「いいよ、そういうのは」
「じゃあなんて呼ぶ」
「先生以外なら、なんでも」
「名前を教えてくれよ」
「いや、だめだ、それはだめだ。名前を知られたら、君らなにするか分からない」
「そんなの調べればすぐ分かっちまうことだろ」
 ラファエロが身を乗り出すと、男はぴょんと飛びのいて、
「あっ、いや! いやっ違うんだ、違うよ? つまり僕から近づくから、君は動かないで、そうしたらそうだ、ここに座って、あ、待った、鍵を閉めてくるから、待ってて、いや座ってて、ね、どうぞ」
 男が忙しなく動く度、壁に山と積まれたケージの中で、金や青や褐色の小さな目玉がちらちら動きまわった。事務所中のありとあらゆる鍵を閉めてまわりながら、男は丸椅子に座るラファエロを何度も振り返って確かめた。まるで薄暗い夜道を一人歩く女のようで、ラファエロは男と目が合う度に薄笑いを浮かべて手を振った。鍵を閉めおわると男は医療器具をのせたワゴンを引いてきて、あちこちぶつけたり引っ掛かけたり中身をばらしたりしながら長いことかかってやっとラファエロの前に腰を落ち着けた。ラファエロは聴診器やペンや温度計を身につけようと蠢いている男の前にぐいとギプスの腕を差し出す。男は女の子みたいな声をあげて顔を赤らめる。
「……こいつを外すんだろ」
「あ、ああそうか、まあ、まだ早いけども」
「もうなんともねぇよ」
「ちょっとだけまわってうしろのを見せてくれない?」
 ラファエロは羽織っていたコートを脱いでくるりと椅子ごとまわり、甲羅を差し出した。男は眼鏡をかけなおして甲羅の表面に顔をよせる。甲羅の大半は綺麗な深緑をしていて表面はなめらかだった。ただ脇に近い場所がおおきく窪んでいて、縫い合わせた痕がくっきりと残っている。
 男はラテックスの手袋をした手で割れた甲羅のふちを撫でたり押したりしながら言った。
「ミュータントもあんまり変わらないんだね、だいぶ前にこう……ぱっくりいった子を見たことあるけど、すごい回復力だったよ。前より丈夫になったくらい」
 ただのリクガメだったけど、と付け加える。それから男は腕のギプスを外しにかかった。電動カッターで端に切れ目をいれ金槌で石膏を粉々にすると、大ぶりのハサミで布地をこじ開け、切り取っていく。ふやけて他の部分より色の薄くなった皮膚をラファエロが物珍しそうに撫でていると、万歳してみてと言われた。言われるままに大きく振り上げるとパシャ、と写真をとられる。ラファエロは思わず立ち上がり、驚いた男は持っていたポラロイドカメラを落として悲鳴をあげる。写真をよこせと凄むと男は震える手で写真を差し出しながら言った。
「曲がってついてないか確認するんだ。ほら、右と左で高さが同じだから、つまり同等の機能が備わっているということで、」
「だからなんだ」
「おめでとう」
「……そうか、なるほどな」
 ラファエロは座り直して写真をまじまじと眺めた。男はほっと息をついて、それは持って帰っていいからと言った。ラファエロはまるでなにも考えていないような自分の顔に、持って帰ったところでミケランジェロが腹を抱えて笑い出すか、弓の的にされるかだと思ってうんざりした。
 その間も男はせっせと処置を続けた。腕が終わると次は左足にうつり、ジーンズをまくりあげると膝からつま先までを覆っていたサポーターを丁寧に取り去って、何重にもなったガーゼをゆっくりと持ち上げた。独特の刺激臭がして、男は顔をしかめた。縫合したつま先がわずかに膿みはじめているのが分かった。ピンセットを取ってつつくが、ラファエロは気がつかずに手元の写真をみつめている。
「ちょっといいかな、」
「あ?」
 ラファエロは言われて男の手元に目をやった。血が固まって黒くなったつま先が目に入る。息をとめて自分の足に見入るラファエロに、男はそれ以上何も言わず、念入りに消毒してガーゼを取り替え、新しいサポーターをつけて、終わったよと来たときと同じぎこちない笑顔で言った。
 帰る間際、ラファエロは電気の灯らぬ処置室に並んだケージの中を覗いた。動物がいるにしてはずいぶん静かだと思ったら、かれらはそのほとんどが鳴くこともできないくらい弱った動物ばかりだった。腹に包帯を巻いて動かないように拘束具をされたイタチや、耳のない猫、壁に寄りかかるようにしてひたすら自分の足を舐めている犬。
 ラファエロは男に礼を言って、また松葉杖を片手に歩き始めた。帰りは地下を通らず、月明かりの眩しい夜道を行くことにした。途中、ふと思いついてケイシーとエイプリルのアパートに立ち寄った。深夜にもかかわらず、彼らは両手を広げてラファエロを迎えいれた。ケイシーはさっそく撮りためたプロレスのビデオを出してきて、結局一晩中ビデオで見た新しい技を試したり、ここ数日のとりとめのないことを話しながら過ごした。
 朝、仕事にでかけるケイシーとエイプリルの車を見送ったラファエロは、のろのろと下水道に降りていった。来たときと同じように地下鉄のコンコースに入ると、これから仕事に出る人間たちでごったがえしていた。仕方なく、道を変えようと方向転換をしたときだった。先走った右足が、置き去りになった左足につまずいて転んだ。がらんがらんと杖が倒れ、人波がぱっくりと二つに割れた。尻餅をついたラファエロは苦々しい顔で絡まる足を解いた。手を伸ばして落ちた杖をとろうとすると、横から見知らぬ手が伸びてきて先に拾われる。見ると、頭からつまさきまで真っ黒のレインコートを羽織ったレオナルドが立っていた。
「なにやってる」
 空気の多いしゃがれた声だった。前屈みになって囁くように話す彼は一見すると逃亡してきた囚人か浮浪者のようで、道行く人々は益々遠ざかり、気がつくとそこはちょっとした離れ小島みたいになっていた。
「その格好はねぇだろ」
「急いでたんだ、仕方ないだろう」
 言い訳をするレオナルドが差し出した手をとり、ラファエロは立ち上がった。そのまま肩を借りて歩きながら、なにを急いでたと聞くと彼は冷ややかな目線を寄越す。
「どうだったんだ、具合は」
「おう、みるか」
「なんだ」
 ラファエロは病院でもらった自分の写真をとり出してレオナルドの鼻先に持っていく。レオナルドは目を細くしながら写真をながめ、ふっと表情をやわらげた。
「よく撮れてるじゃないか」
「だろ」
 二人の歩く場所は人の多い地下鉄の駅から薄暗い下水道にうつった。レオナルドはラファエロの甲羅にまわした腕を外すことはなく、少し息切れをさせながら言った。
「まあ修行なら、いくらでもつきあってやるから。すぐ戻れるよな」
 レオナルドが支える手をいっそう強くして、黒いビニールのフードの下からじっとこちらを見あげる。二人はしばらくの間黙ってお互いの目の色を見比べた。ラファエロは少しばつの悪い気分になって目を反らし、
「なんだ急にきもちわりぃ」
「………………じゃあいい」
「おいおいおい、すねんなってリーダー」
「うるさいな」
「これやるからよ」
「いらない」
「なんだよ、よく撮れてるんだろ、ほら」
「いらないっていってるだろ」
 レオナルドがラファエロの手をはねのける。持っていた写真がひらりと落ちて下水に浸かってしまう。ひでぇな、と悪態をつきながら写真をとろうと身をかがめると、急に血の気が下がって視界が暗くなり、汚水の中に手をついた。驚いたレオナルドが腕を掴んで引っ張り起こそうとする。
 どっと汗が噴き出した。左足に、粗めのやすりをかけられたような熱い痛みが襲ってきた。ラファエロはレオナルドの手を振り払い、震える膝をかかえてうなった。痛みは鼓動と同じ速度で足から膝へ、膝から脇腹へ渡り、首を通って頬骨のあたりまでやってきて、ついには目を開けていられなくなった。どうしたんだ痛むのか、と緊張にうわずった声でレオナルドが言う。ラファエロは支えようとするレオナルドを退けて煉瓦の壁をひっかくようにして立ち上がった。壁に寄りかかり汗だくになって息をしていると、突然左目からぼたぼたと涙が流れ出た。とっさに腕で覆い隠したが、それを見たレオナルドが息を飲み、不安に顔を歪めるのが分かった。ラファエロはレオナルドが持っていた杖を奪い取って囁く。
「おまえ先に帰れ」
 宙に浮いたままのレオナルドの指が痙攣する。
「いや、俺は、」
「行けよ」
 身を乗り出すレオナルドの肩を掴んで力任せに押しやる。レオナルドはよろめいて、下水に足を突っ込む。そのままこちらに向き直ろうとする背中にラファエロは、
「振り返ったら殺す」
「……一人で帰ってこられるのか」
「ああ」
「……わかった」
 レオナルドは強張っていた肩を落としてため息をつくと、振り返らずに汚水の中を歩きはじめた。その後ろ姿がだんだんと遠ざかり、水を跳ね上げて歩くやかましい音が消えたとき、ラファエロのすぐ隣にいた痛みがぬっと頭をもたげ、容赦なくのしかかってきた。
 
 
 
 







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