激しい息づかいが夜の通りに響き渡っている。足音は一つだ。追われているらしく、時折立ち止まっては目に見えない敵を探すように地面を掻く。姿を隠すために深く被ったフードから、ひらりと赤い切れ端が覗いていた。両手にしっかりと握った三又の武器の感触だけが、ぼんやりとした意識を支えている。
 突然、強い力で頭を殴られ、ごろごろと道を転がって煉瓦の壁に背を打ち付けた。背負った甲羅がごつと固い音を立てる。
 息も荒く、横たわる彼の首に尖った靴先が押しつけられる。深いえんじ色のいかにも高そうな革靴だ。その足は痛みに呻く顔を蹴り上げ、投げ出された腕を固い靴底で踏みつけた。彼の体はのびきったゴムのように地面を転がった。
 古いレコードのようにぷつぷつと途切れる意識の中、彼は降りてきた足に無我夢中でしがみついた。そしてしっかりと握ったサイの切っ先でふくらはぎを貫く。
 ずぶりと肉に食い込む感触。そのまま力任せに横に引きちぎる。ビルの谷間に赤黒い肉片が飛び散るのが見え、彼はフードの下で不敵に笑ってみせた。
 足の主は、叫び声ひとつあげず彼を見下ろしていた。突き通したはずの肉は奇妙な形で垂れ下がっている。
 猫背の体制から横にぶら下がった異様に長い両腕、拳には黒鉄の鉄甲をはめ、その横から刃渡り10センチほどの刃がつきだしていた。人間は、やせこけた頬をもごもごと動かしながら、黄色く濁った瞳に呆然とする獲物の姿を映した。赤いマスクの端を掴み上げ、獲物の顔に鉄甲を振り下ろす。
 視界が激しく揺れて、彼の視線は地面へたたき落とされる。
「ぐっは・・・っ」
 あえいだ唇から血だまりが流れ落ちた。今度こそだめかと、半ば覚悟を決めて口の中に溢れるものをはき出す。しかし男は、それ以上手を下すこともなく無感動な瞳で見下ろしているだけだ。代わりにくつくつと気味の悪い笑い声が聞こえてきた。見上げると同じような影がもう一つ。一回り大きいがやはり人間である。手には大柄の棍棒を持ち、あちこち欠けたぼろぼろの歯をむき出してにやにやと笑う。青白い二つの顔を見比べて、彼は気づいた。遊ばれている。男たちは獲物を嬲って楽しんでいるのだと。
「・・・は・・・趣味が悪りぃな・・・つきあいきれね・・・ぇっ」
 かたかたと震える両手の武器を握りしめて壁を背になんとか体を立たせると、ふらつく足を踏みしめて前へ出ようとした。
 かちんと軽い音がして、彼は何が起こったのかを把握できないまま、また地面と顔をつきあわせた。握りしめていたはずの柄が手を離れて宙を舞っていた。あ、と思った瞬間に腹にたたき込まれたのは男の持った棍棒だ。無様なほど体が折りまがって、息がつげない。縮こまる足を踏みつけられた。痛みに呻くと、鉄甲の男が目を細め、闇夜にひらめくナイフの先で裸足のつま先をなぞる。そして仰向いたまま荒い息をつく彼に見せつけるように、ゆっくりと、親指の爪をえぐり取った。
 
 







 
 




SEEING RED


 
 






 
 
 
『・・・は、眠ってるよ』
『もう2日も・・・傷は・・・』
『最悪の・・・でも大丈夫・・・この前は・・・』
 
 
 近くで密やかに話す声がする。どれも聞き慣れた声で、ラファエロはなんとか声がする場所まで行こうとするが、体が異様に重く、全身にじりじりと這い上がる痛みに首を振ることしかできない。
『・・・ファエ・・・なん・・・だから、』
 薄く開いた視界に柔らかな光が差し込んできた。うつぶせで白いシーツに力なく置かれた自分の腕、見慣れた赤煉瓦の床、壁を伝うコードに愛用のベンチプレス、部屋を漂う柔らかな香は父親が使っているものだとすぐに分かる。こちらをのぞき込む三組の瞳はどれも不安に揺れていて、ラファエロは小さく笑みをこぼした。
「・・・いいかげんに目を覚ませ」
 ふいに囁かれた声に、意識がぐいと引き戻される。見開いた目に明るい三色のマスクが飛び込んできた。安心した声がそれぞれからあがり、中でもラファエロのすぐ近くで様子を見守っていた青いマスクの主が「先生に知らせてくるよ」と立ち上がって出て行った。
「よーおまえ、元気そうじゃん」
 ベッドの端に手をかけて跳ねるのはミケランジェロだ。飛ぶたびに橙のマスクまで揺れる。
「とりあえずおはよう。どう気分は?」
 隣にいたドナテロが、ラファエロの顔をのぞき込んで、意識を確認する。
「・・・さいあくだ」
「そりゃ良かった」
 言いながら救急箱を取り出すドナテロの背にミケランジェロが飛び乗って、興味津々という目で見つめてくる。
「で、どんなモンスターなの?どろどろのヘドロマンとか、めちゃくちゃくっさいドラゴンとか!」
「おまえみたいな馬鹿野郎だよ・・・」
「まーじでー!」
「マイキー」
「分かってるって、絶対安静でしょ!」
 けらけらと笑うミケランジェロを横目で見たドナテロが、やれやれ困ったという仕草をしてみせる。ひりつく頬をあげて笑い返すと、ラファエロを呼ぶ声がして、首を巡らせた。入口で心配そうにこちらを見ている父の姿。その後ろではレオナルドがいつもと変わらず二振りの刀を背負って立っていた。ドナテロとミケランジェロが立ち上がって、父を招き入れるように場所を空ける。スプリンターはまだ半分夢の中にいるようなラファエロに歩み寄り、その肩に手を置いて頷いてみせた。
 ラファエロはドナテロに支えられながらもなんとか体を横に向けると、黙っている父の手に自分の手を重ね、掠れた声で呟く。
「先生・・・話があります」
 
 
 


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
 
「いいよ」
 トンと棒の先を床につき、歌うようにドナテロは言った。
「僕でよければ」
 垂直に立てた棒を両手で掴み、腰を深くする。
「おさわりはナシでしょ、上等じゃない」
「ドニー、真面目に言ってるんだ」
「話すのもだめ?これも戦略のうちなんだけどね」
 一通り午前の鍛錬が終わったあと、ミケランジェロは真っ先にリビングのテレビに飛びついた。先生はソファに腰掛けてお茶を啜りながら新聞を読んでいるはずだ。ドナテロは自らの発明品の試運転にとりかかろうと思っていたところだった。リモコン操作が可能な全自動ゴミ取りロボで、自ら察知して障害物を避け、ちらばったスナックの欠片を積極的に集めると同時にカーペットのしつこい染みを拭き取って、さらに誰かの足を間違えて飲み込むことのないように綿密にプログラミングされた画期的なゴミ取りロボだ。ただ一つ改良すべきなのは、動くたびにギャング同士の銃撃戦が行われているような騒音を発する点である。
 レオナルドはいつもは背負っている刀を左腰にくくりつけて構えていた。そえられた左手が、刀の鞘を前方に引き下げる。
 ドナテロは棒をくるりと回して平行に持ち変えると、下段に構えた。
「お手柔らかに」
 静かに頷いたレオナルドは、横一文字に引き結んだ口から深く息を吐き出すと、刀の柄にゆっくりと右手を添える。ドナテロは棒を据えたまま、レオナルドの足下に視線を集中させていた。ぴくりと足の指が動くとほぼ同時に刀が鞘をこすり、勢いよく引き抜かれる。ふつと横へ流れようとする刃を、ドナテロはすぐさま叩き落とし、円を描くようにして棒先をレオナルドののど元へつきつけた。ほんの一瞬のことだ。
「はい、ひとーつ」
 楽しげに言うドナテロにレオナルドは顔をしかめ、刀を鞘に収める。ドナテロは今度は上段に構え、目線で次の手を促す。そしてレオナルドが一瞬の呼吸ののちに引き抜く気配を感じるや否や、柄を握る右手を突いて、今度は刀身を抜くことすら許さなかった。
「ふたつ。ねえ、二度あることは三度あるって諺知ってる?」
 打たれて赤くなった右手を振りながら痛みを紛らわせているレオナルドに、ドナテロは自分の十八番である中段の構えをとってみせた。
 レオナルドは目を閉じて、ぼそぼそと聞き取れないほどの声で何か呟いている。そしてさらに低く構え、今度はぴたりと動きを止めた。足下も、呼吸も、濃茶の瞳すらも微動だにしない。完全に静止した空気を感じてドナテロは警戒を強め、一つの動きも見逃すまいとする。
 その矢先、音も立てずに刀が前へと躍り出た。ドナテロはあまりの早さに反応できず、ひやりとした刀身が首に触れた。我に返って体を引いたときには振り上げられた鉄の刃が、容赦なくこちらに振り落ろされるところだった。
「待ったっ!」
 思わず叫んだドナテロにレオナルドは動きを止めて、不思議そうに瞬きを繰り返す。
「どうした?」
「い、やー・・・僕じゃ相手にならないみたいだね」
「感じが掴めてきたんだ、もう少し、」
「そうしたいけど、さんざん稽古したあとでこれ以上はちょっと・・・」
 レオナルドは、あからさまに深呼吸をしてみせるドナテロに、仕方なく刀を納めて礼をした。早々に鍛錬場を出て行くドナテロの後について歩きながら、レオナルドはミケランジェロに相手を頼もうかと、テレビのある方へ目をやった。けれど彼は新しく始まったばかりのテレビドラマに夢中でそれどころではないらしく、さらに先生までもが弟の隣でドラマに見入っており、課外授業を頼むのは気が引けた。
「ラフに相手してもらえばいいよ」
 振り返ったドナテロが明るく言う。
「ただし、体が回復したらだけど」
「そうだな・・・」
 レオナルドは未だ起きてこないラファエロの部屋をみやった。意識を取り戻した彼はえらく深刻そうな顔でスプリンターと何か話し込んでいたが、兄弟である自分たちには何も言おうとしなかった。先生はただ、ラファエロの傍にいてやりなさいと言っただけで、事の真相は未だ分からず、レオナルドはいままでにない焦燥感に駆られるばかりだった。
「そうそう、アレの件だけど」
 冷蔵庫からコーラを出しながらドナテロが言った。
「・・・ああ」
「結果が出た。専門家じゃないから、話半分に聞いてくれると丁度いいかな」
「それで?」
 ドナテロはううんと唸って、続きは僕の部屋でと言い出した。促されるままにドナテロの部屋に入ったレオナルドがまず目にしたのは、作業台に積まれた本の山だ。横ではプリンタが音を立てて印刷を続けていて、その振動で今にも山が崩れそうだった。ふと何か蹴飛ばした気がして足元を見ると、ダンボールが三つ並んであった。それぞれ「良い子」「なんなの?」「役立たず!」と書かれている。首をかしげていると、「まあ座ってよ」とドナテロが椅子をひっぱってきた。けれど、椅子の上にはなぜか掃除機の吸い取り口が転がっていて、レオナルドは座るに座れない。彼はそれを気にも留めず、「ちょっと待って」と言いながら机にのったものを乱暴に端に寄せはじめた。
 一通り整理らしきものを終えたドナテロは、仕上げとばかりに掃除機の吸い取り口を摘んで「なんなの?」に放り込んだ。そうして空いた場所に顕微鏡を置いてレオナルドを手招く。言われるままに覗き込むが、何か六角の結晶体である、ということしかレオナルドには分からなかった。
「で?」
 ドナテロは心底疲れたというような顔をする兄に、ビニールに入った小ぶりの錠剤を渡した。それは、ラファエロが帰って来た日に着ていた服から見つけた、正体不明の錠剤だった。見た目は薄いピンクで、よくドラッグストアに売っているようなサプリメントにもみえる。
「成分はアミノ、カフェインと塩分と凝固剤等々、かな。くわしく調べないとなんとも言えないけど、フェニルメチルアミノプロパン系薬剤と分子構造はほぼ同一。かなり強度の向精神薬で一般に出回るような代物じゃないと思うよ」
「・・・つまり?」
「違法に精製された薬物。ドラッグだね」
 あくまでも推測だよ?とドナテロは言うが、レオナルドの顔からはみるみる血の気が引いていく。
「それで、これはなにか・・・麻薬、なのか・・・」
「おそらく」
「もしこれをその・・・使ったとしたら、どうなる?」
「そうだね、極度の興奮状態に陥って不眠状態が続き、異常な発熱と発汗、それに性的興奮が増すけど男性機能は不能になる、なんてことが本には書いてはあるけど・・・やっぱり正確なことは分からないよ。今出回ってる違法薬物とは少し違うみたいだし・・・」
 僕の見解ではね、と話し続けるドナテロの声は遠く、レオナルドは手の中にあるそれを強く、握りしめた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ない。
 
 
 やっと動けるようになってから、そのことに気がついた。洗濯されて綺麗に畳んであったパーカーを探る。やはりなくなっている。落としたのかもしれない。そう考えて、部屋を出た。朝方のリビングは静かなもので、いつもは騒がしいソファ周りも、ドナテロの作業スペースも、使っていただろう誰かの痕跡を残したまま、静止している。ラファエロはまず階段の踊り場を調べた。床の継ぎ目やら、ずらりと並んだミケランジェロのスケートボードコレクションやら、カーペットも捲ってみたが、目的のものはない。
 下に降りて、よく人のものを紛れ込ませているドナテロの作業台を調べた。ものが多すぎて、結局片付けるはめになる。本を積み直し、工具をしまい、ほこりを隅々まで払ってみても、それらしきものはみつからなかった。
 今だに痛む足を引きずってソファに寝転がる。ふとついたため息が天井高く登っていく。遠くを走る始発電車の揺れに、自分は家に帰ってきたのだと強く感じた。ぽつりとぶら下がる電球をみつめていると、記憶の切れ端がちらつきはじめ、ラファエロは目を閉じて身を任せることにした。
 
 




 
 
 
 バタンバタンと、扉を乱暴に開閉する音がする。どこからか水音が聞こえてきて、頭を持ち上げると、まぶしいくらいの太陽が窓から降り注いでいた。見慣れない窓だ。ビニールのカーテンがひらめき、タイル張りの壁一面に光が踊っている。地下ではなかなか見られない光景だと思った。殴られたようにずきずきと頭が痛む。
「・・・っなんだこりゃあ」
 ラファエロは古びたバスルームのバスタブの中にいた。正確に言うと、右手をバスタブの蛇口に縛り付けられて、転がっていた。身につけていた服はじっとりと濡れて、あちこちに引っかけたような穴が空いている。なんにせよ、あまり良い状況ではないらしいと、ラファエロはきつく縛られた手首の拘束を外しにかかった。
「ん・・・?」
 ほどけたそれを広げてみると、赤い布に細かなレースが施されたブラジャーである。こんなに間近で見たのは初めてだと、ラファエロはまじまじと手の中のものを眺めた。
 そこへ、すさまじい音をたてて扉が開き、立ち上がって身構える。扉の向こうから黒髪が覗いた。人間の女だ。こちらに気がついていないのか、倒れ込むように洗面台へもたれかかる。長い黒髪に真っ白な肌、ぴたりと体に沿ったショートパンツにTシャツという簡素な格好だったが、細長い手足からそのスタイルの良さは見て取れた。吐く息は荒く、脇腹を押さえて洗面台に顔を突っ込み嘔吐する。
「誰だ」
 ラファエロが声をかけると、くるりと小さな女の顔がこちらを向いた。身構えているラファエロを丸い灰褐色の瞳がみつめてくる。
「てめぇはなんだ、どうしてオレはここにいる、答えろ」
 女は構うことなく洗面台で口をすすぎ、そのまま壁に背をつけてずるずると尻餅をついた。よく見れば頬には殴られたような痣がある。ラファエロは構えていた拳を降ろし、女の元へ歩み寄った。彼女は、ああ、とうんざりしたような声をあげ、掌を差し出して、言った。
「・・・それ返して」
 女はラファエロの姿に驚くでもなく、ただ薄ら笑いを浮かべていた。三日月を模したような唇に見覚えがあると思った。痛む頭を押さえて呻くと、女の手が伸びてラファエロが持ったままのブラジャーを奪う。
 そこへ再び、バタンバタンと扉が乱暴に開かれる音がして、今度は複数人の盛大な怒鳴り声が響き始めた。女はすぐさま立ち上がり、浴室の扉を閉めてラファエロに向き直った。
 すがりつくように手を伸ばし、こちらに倒れ込んでくる。思わず抱き寄せた女の体は冷え切っていて、甲羅に回される両手がそこから二度と離れるまいときつく結ばれた。
「ごめん」
 震える声が耳元で呟いた。どんっと浴室の扉が叩かれ、ドアノブががちゃがちゃと忙しなく音を立てた。
「・・・ごめん」
 バンバンと銃声が聞こえて扉に大きな穴が空く。舞い散る木くずからラファエロは女を庇うようにしゃがみ込んだ。ちくりとうなじに走った痛みに、ラファエロは女を引きはがして首に刺さる何かを抜き取る。小さなプラスチックの注射器だ。女は浅い息をつきながら涙を溜めた目でこちらを見ている。
 瞑った目の奥に、じくりと白くもやがかったものがちらついた。体中から汗が噴き出して、自分の吐く息や床を擦る靴音が五月蠅いほど鮮明になっていく。
 ラファエロは腹の底からわき上がってくる真っ黒な衝動にたまらず吼えた。目の前の扉が音を立てて砕け散るのがみえる。女の悲鳴。銃声。そして、沈黙。
 
 
 
 
 
 
 
 
 




 
 
 
「うっ・・・ぐ!」
 意識が戻ると同時に体が動いていた。自分に触れようとしていた何者かの手を掴み、ソファに引きずり込んだ。武器を取ろうと腰にやった手が空をきる。
「おい!」
 首を締め上げていた腕を叩いて、そいつが声を荒げた。見ると、そこにいたのは青いマスクの兄弟で、ラファエロは慌てて手を引っ込める。
「・・・っんだよ、驚かすな」
「それはこっちのセリフだ」
 首をさすりながら体を起こすレオナルドはなぜかうわついた様子で、こちらをうかがっている。掠れた声、忙しなく上下する肩と見上げる両の瞳。ラファエロはそのどこかで見たことのある光景を、必死に思いだそうとしていた。
「起きて大丈夫なのか」
 ラファエロは舌打ちした。兄は怪訝そうに顔をしかめる。その肩を押してソファに押しつけると、レオナルドは益々眉間に皺を寄せ、真意を探るように視線を合わせてきた。
 朝から走り込みにでも行ってきたのだろう、触れた肌は暖かく、首筋がうっすらと汗ばんでいた。ラファエロは一つ息をつくと、脳裏に浮かんだすべてのことを追い払い、兄の手をひいて立ち上がらせた。
「・・・これぐらいなんでもねぇよ」
「なんでもなくないだろ」
 レオナルドは、離れようとしたラファエロの手首を取って、いつになく真剣なまなざしをよこしてきた。触れた箇所から隠しきれない不安の色が伝わってくる。
「何を探してた」
 囁く声が一段と深くなる。ラファエロはその言葉の指す意味が掴めずに、瞬きを繰り返した。レオナルドの手が痛いほどに力を増す。
「おい、落ち着けって」
 おどけた口調で言ってやるが、レオナルドの視線はただまっすぐにラファエロを射ぬき、意を決したようにもう一方の手を差し出してきた。尖った節と親指のたこが目立つ指だ。ゆっくりと開かれた掌にはビニールに包まれた小さな錠剤がのっていた。
 ラファエロは息を飲んだ。
「これを、探してたんじゃないのか」
 暗く濁る兄の声。その目は怒りと後悔、ほんの少しの許しを湛えている。
「返せ」
 奪い取ろうとすると、それは硬く握りしめられた。構わず拳ごと掴んで兄を見返す。
「ラファエ・・・っ」
 音がするほど握りこむと、レオナルドが言葉を詰まらせた。無理にでもこじ開けようとするが、頑なにそれを拒む。
 ラファエロは空いている方の手を、ゆっくりとレオナルドの胸に押しつけた。後ずさる体を壁際に追いやり、その手を下腹へ持っていくと、兄の瞳が困惑したように揺れる。柔らかい下腹部に指を食い込ませると体が強張った。わざと痛むように力を込める。彼の背負った刀が壁に当たって音を立てる。そのすきに拳を割りひらいて、力任せに錠剤の袋を引きずり出した。
 ぱしんと、顎を跳ね上げられる。ラファエロは目を反らすことなく黙ってそれを受けた。肩を押され、再び頬を張られても、されるがまま。
 先に視線を落としたのはレオナルドの方だった。ラファエロはソファにかけてあったパーカーを取ると、兄に背を向けて歩き出す。
「行くな、ラフ」
 家を出ようとしていた背中を止める声。
 振り返ると、まるで敵を見るような兄の視線とかち合った。
「行くな」
 強く、リーダー然とした態度のレオナルドに、ラファエロはなにか眩しいものでも見るように目を細くして、
「お前が言うなよ」
と笑ってみせた。