レコード・リプレイ・リプレイ・レック
 
 
 
 
 
 レオナルドは夜空に飛んでいく地図を見て、いまいましく舌打ちをした。
見えない。本当にいるのかな……わからないよ
 ドナテロの声が帯に挟んだ無線機から告げたが、レオナルドは話半分で聞いていた。あとをつけているのがみつかって、とっさにそいつの横腹を刀の背で思い切り潰したところだっだ。足元からそいつの唸り声がしていたが、レオナルドはつま先にかかった服をさっと払って、後ずさりするだけだった。青い月がのぼっていた。地図はビル風にまかれて海に向かっている。
あった、あれだよ。ピンクのワゴン!
──あんなものなくたって……、
 鞘にしまおうと降りあげた刀が貯水槽の梯子を叩いて轟いた。路地にいた野良犬が何事かと起き上がってあたりに吠える。「最高だな」後ろから声。ラファエロが駆け寄ってきて、サイを煉瓦の隙間に差しておき、休憩でもとるのかと思いきや、汗にぬれたマスクを結び直してすぐまたサイを掴み、レオナルドの胸をどんっとついて隣の屋上へ飛び移る。やや重ために走る彼のあとを追ってひらりと飛び移ったレオナルドは、三角窓の細い柵を走り、物干し竿を掴んでぐよんと次の屋上へ飛んで一息のうちに彼に追いついた。
待って
「どうした」
走り出した
 がしゃーんと物干し竿を倒す音。先走ったラファエロが転んだのだ。
僕もそっちにいく
「ラフ!」
 呼ぶと、彼はのそりと立ち上がって、レースつきのでかパンツとキャミソールとトイレマットを振り払った。息をするたびに白く立ちのぼる呼気を噛みつぶしながらあたりを見回していたレオナルドは、屋上から道路を覗きこみ非常階段を伝ってすとんと下のベランダに降り立った。続いてどしーんと盛大な音をたてて降りてくるラファエロを睨みつけ、口だけ動かしながら『しっ』『みつからないのか』『ドニーが追ってる』『うえのやつらに吐かせればいい』「だまってろ、気配が追えなくなる」最後は思わず声に出してしまって、ぱっとベランダのある部屋の明かりがついてカーテンが開き、ガウンを羽織った老人が眼鏡をかけてじっと窓の外をみつめた。二人は窓の両端でよくできたガーゴイルみたいにしていた。再びカーテンがしまって明かりが消えるとラファエロは汗で光る腕を組んで言った。
「かっかすんなよ」
「おまえに言われたくない」
 下の道をタクシーがすぎるたび青い光がふたりの顔を順番にやいていった。ながれる汗が階段の足場にだらしなく垂れ、ぬぐってもぬぐっても滲んでしたたる。鼻先をこする両手が震えている。ラファエロも同じで、だらんと伸ばした両手からもうサイを1ミリも離せないといったかんじだった。ラファエロは視線を感じ取ったのか、
「オレは平気だ」と言い、
「俺だって」とレオナルドは続けたが、ラファエロが空笑いで遮った。
「おい、地図をどうしたんだよ」
 レオナルドは答えなかった。冷たい肌がネオンにぬらと光る。
「だから言ったろ。そんなんつかえねえって」
「また買えばいい」
「おまえ、んなみみっちいことしてたら次は死ぬぞ」
「死なない。冗談でもそういうことを言うな」
「だいたいあいつが外へ出てこんなことになったんだ。キャンディショップでお買い物とはおそれいったぜ。あのパーティ頭、串刺しにしてグリルにしてやる」
だめだ届かない
 不安にゆがむドナテロの声を聞いていたレオナルドは思わず腰の無線機を片手で押さえて言った。
「マイキーをキャンディショップにいかせたのは俺だ」
 ラファエロは、はっと息をついた。レオナルドは柵を跳び越えまた一階下の非常階段にすとんと足をついた。後をついてきたラファエロに向かってレオナルドは刀ごと両腕を広げて、
「あんまり言うから、一度行けば気が済むかと思ったんだ。間違いだった。」
「オレの散歩にはがみがみ言うくせにあいつには甘いのな」
「お前とマイキーじゃぜんぜん違う。お前には目的がないだろ。反抗してるいかした自分を見せたいんだ。マイキーはたんに、興味だ。外の世界への」
「へーえそれじゃあしかたねえなあ」
「ふざけるな」
「どっちが」
あたった!
 無線から声がし、がしゃんと下でゴミ入れが倒れた。どこからか飛び出してきた犬たちがゴミの残骸にたかる。道の向こうでからロリポップキャンディを頭にのせたワゴンがふらふらと蛇行しながら走ってくるのがみえた。ワゴンは二人のいるアパートの前を全速力で通り過ぎていき、すぐ横の脇道に入ったかと思うとそのまま空き家の庭に突っ込んで玄関ポーチに乗り上げ家に追突して、とまった。ふたりのいたベランダのカーテンが再び開いて老人が窓に顔を押しつけるようにして外を眺めたが、どうやらその目にワゴンの煙は映らなかったらしく、口でもごもご悪態をついて下がり、今度こそカーテンをきっちりと閉めた。
どうなった?
「庭につっこんだ。車をまわしてくれ」
わかった
「死んだな」
「死なない。黙ってついてこい」
 二人はするするすと階段を伝って降りていき、空き家の柵を乗り越えて枯れた芝生にすとんと足をついた。じゅうじゅうと鉄板のように音をたてるワゴンはフロントガラスがへこみ、白い網の向こうで誰かが蠢いているのがみえた。レオナルドは息を殺し、暗闇から月夜の照る庭へそろりそろりと踏み出した。ラファエロが気配なくついてきて、一足先にワゴンの反対側へぐるとまわっていく。車体ががくんと下がって、タイヤのホイールが地面にめり込んだ。銀色の矢が後ろのタイヤに突き刺さってゴムが裂けていた。近寄ると中から言い争う声、ごとごと壁が持ち上がる。
『……で……よ!』
 聞き慣れた声がしたとたん、レオナルドとラファエロはワゴンまで駆けていって扉に手をかけた。
 ぱあん!
 レオナルドの足元の草が跳ね、土塊がももにあたった。
「マイキー!」
 ラファエロが前に回ってフロントガラスを砕き、中に無理矢理押し込んだ。ごとごと中で動き回る音。レオナルドも前にまわろうとしたが、鼻先でぱちんと火花が散ったのでとっさに身を低くした。振り返ると庭の外側で、赤くなった銃口がちりと燃えて消えるのがみえた。「あれはなんだ」とささやく声も。レオナルドは右回りに庭をかけて柵を跳び越え、驚愕でゆがむ人間の顔を刀の柄で殴った。ばんっと今度はもっと大きな銃声があって、顔が半分焼けたように感じて目をつむった。ちかちかする目をまばたきしながら、足音がする方に向かって刀を型どおり振った。いくつかは感触があり、叫び声も聞こえた。辺りにうめき声が増えれほど気配はやわらいでいき、景色も戻ってくる。ごろごろ倒れる人間たちと月夜の街の画にゆっくりとピントが合う。
 角を曲がってきた一台のバンのライトに照らされ、レオナルドは再び刀を構えた。バンはレオナルドの目の前で煙をあげて急停車し、光りの向こうから「レオ!」と呼ぶ声がした。ほっとして構えを外し、まぶしさに顔を覆いながらバンを迎えると、慌てて降りてきたドナテロがレオナルドの腕を取ってゆさぶった。「どこなの」と泣きそうな声で請われてレオナルドはドナテロを従えて、庭に駆け戻る。
 庭に停まったワゴンはバックドアが開けられており、そばにはラファエロが立っていた。タイヤの脇に人らしき塊が2つ横たわっていた。近づくとラファエロはこちら振り返りってただ一言「死んだ」と言った。
 真っ青になったふたりがラファエロを押しのけてワゴンを覗き込むと、荷台にはいっぱいの、犬がいた。みんな口輪をされて、リードもつけずにぞんざいに押し込められているのだ。中にはキャンディショップに使うんだろう組み立て式のカウンターと立て看板もあったが荷の半分は犬と動物用ゲージだった。天井に並ぶキャンディの瓶の蓋が開いて床を彩っている。
 ミケランジェロは甲羅にキャンディをのせて座りこんでいた。自分の腕の中をじっと見下ろして。毛むくじゃらの、頭のつぶれた犬を。
 レオナルドは不謹慎な悪態をついたラファエロを睨みつけた。ドナテロは安堵の溜息を漏らしてレオナルドの肩に手を置いた。ミケランジェロは、上半身をうずめるようにして、身体を前後に揺らしはじめた。
 
 
 
 
 
 押し寄せるパトカーの間をすり抜けて、せまい路地を走るバンの車内はじっくりぬりこめた死の匂いがただよっていた。車内は静まりかえっていて、レオナルドは黒くなった刀をしまいもせず足元に置いている。ミケランジェロは膝に両手を上向きにして置いたまま、ぼんやりと話をはじめた。
「みんな攫われてきたんだ」
 ドナテロの視線がミラー越しに動いて先を促した。
「首輪をしてたから、飼い主いたと思う。オイラね、ずっと犬が欲しかったんだ、ほら前にみんなで公園にいったときいっぱい見たじゃん。だからあそこにいけば一匹くらい拾えるかなと思って、よしいってみようって、キャンディショップに行くだけなら許してもらえるかなーって」
「犬を飼いたいって素直に言えば良かったのに」
 ドナテロが運転席から溜息混じりに言うと、
「だめって言うにきまってるよ」
 ちらっと目がこちらを見て、レオナルドは口を引き結んだ。ラファエロはそれに気がついたのか、気がつかなかったのか低い怒りを込めた声で、
「飼い犬を集めてどうするんだ」
「身代金を要求するんだよ」
 ドナテロがウインカーをはねながら言った。
「犬に保険はきかない。でも飼い主には最良のなんとやらだろ、僕もパソコンを楯に脅されたら言うこと聞くかも」
「いつから気づいてたんだよ」
 えっ、とミケランジェロが青い目を大きくしてラファエロを見た。そして仰向けのまま所在なさげにしていた掌をぎゅっとにぎって笑いながら、
「気づいてたっていうか、あの店すっっっげー臭いんだよ! うんこのキャンディなんか誰も買わないっしょ? オイラは言い訳しなきゃなんないから買いにいったんだ、そしたら中にいかした犬がいっぱいいてさ、なんだよ犬も売ってんのラッキー! ってかんじじゃん!」
「まさかそれくださいとか言ってないよな」
「茶色くて尻尾の長いやつがよかったんだよね」
 溜息と笑い声、ラファエロがレオナルドの方を向いて、「なんでこの馬鹿が良くて、」云々と言っていたが、レオナルドはぐにゃんと伸びた景色に舌がうまくまわらないでいた。「おい」とほら穴の外側からラファエロが呼んでいるのがわかったが、もう身体が重くて支えていられなくなった。床がどんどん近くなって、とにかくいまは帰って早く横になりたいなと思った。早く。
 
 
 
 
『いつまで、見てんだよ』
『覚えるまで』
『行ってから考えりゃいいだろ』
『下準備が大事だよ。いざってときに途方にくれたくない』
『そんなのはな、勘が告げるんだぜ』
『なんだ、プロレスかなにかか』
『てめえにはわかんねえよ』
『だから勉強してる』
『くそつまんねえ』
『つきあってくれなくていいぞ』
『ちょっと散歩すれば道なんか一発で覚えるぜ』
『だめだ』
『地図持って戦うヒーローがどこにいんだよ』
『ヒーローはまかせるよ。俺はリーダーなんだ』
『登山隊のな』
『心配か』
『いいや。がっかりだ!』
『ははは』
 
 
 
 
 ぽちゃんこんっと虚しい音に目を覚ますと、ぼやけるほど近くでラファエロが見ていた。はっとして、あたりをさぐって記憶を取り戻そうとする。指が壁に触って煉瓦のふちをなぞる。ベッドは大きな彼が乗っているせいで片側に傾いていて、レオナルドがいるのは丘のてっぺんだ。伸ばした足が枕を踏んでいる。薄闇でじっと見ているだけの彼に、自分はなにかとんでもないことをしたと思った。身体を起こそうとするが、ひどい頭痛のせいで思い通りにならない。
 なんとか身体をまわして枕の方へ向きを変えようとすると、彼の手が足を掴んで止め、「汚れたから向きを変えたんだ」と、下のシーツをさすった。
 レオナルドはずきずきする頭を撫でて、丁度目の横にぷくっとふくらんだ瘤をみつける。そこだけアイロンされているみたいに熱かった。のどがからからで声がでない。それを見ていたラファエロが「のむか」と言って差し出したカップの炭酸が抜けたコーラを、一気に飲んだ。大半が口から零れてしまい、ラファエロが「また汚した」と言ってシーツの端を捲ってみえないように畳んだ。
「……先生は、」
 息の多い声で問うと、彼はカップの底を覗いて残った雫を舐める。
「かんかんだ」
 レオナルドはまばたきした。かこんと床にカップを置く音。
「しばらく監禁状態だな。オレは罰として毎日おまえの面倒を見るし、マイクは風呂とトイレを掃除する。ドンはとくべつな修行だとさ」
「俺は、……」
「おまえがなにをするかは知らない」
「聞いてきてくれ、俺がマイキーをひとりで出してあんなことに、なったんだから」
 ラファエロは嫌に冷静な顔でレオナルドを見下ろしていたが、くいっとみけんを持ち上げながら言い放った。
「オレが聞いたのは、おまえがリーダーから外されたってことだ」
 レオナルドはひゅっと息をつめた。
「それ以外は知らない。どうせドンが後釜なんだろ」
 押しつぶされるような苦しみがレオナルドの全身を襲った。ラファエロはそれをじっと、観察していた。
「だからこれ以上おまえの命令は聞けないんだ。悪いな」
「……」
「さすがにキツイって顔してんな。おまえの頭のそれは銃がかすったからだぜ、熱が出て、感染症に気をつけないと下手したらしんじまう。オレじゃない、ドンから聞いた」
 レオナルドは目を開けた。ラファエロが覆い被さるようにして覗き込んでいた。
「リーダーじゃないなら、おまえはなんなんだ」
 レオナルドはごくりごくりと唾を飲み込んでごしゃついた気持ちを整理しようとした。
「まあ、……オレには関係ねえけどな」
 呟いて、ばんとベッドに両手を叩きつけて行ってしまう。彼がいなくなって揺れるベッドに転がされながら、きーんという耳鳴りと頭痛に襲われてレオナルドは気を失った。
 
 
 
 
『レオ! ラフがシーツかえしてくんないんだしかってよ』
『ラフ、マイキーにシーツをかえせ』
『いやだね』
『すっかりはまっちゃってさ。ヒーローになるつもりだよ』
『ドニーが見せたんだろ、あんなのおれたちがなれるわけない』
『だれがきめた。なんでだ』
『マントがあったって空は飛べないだろ。目からビームはでないし、聖なる印もない』
『オイラのシーツ!』
『人間じゃないのはポイント高いよね』
『ドニー……』
『ひっぱんじゃねーよ! むこうに新しいのがあんだろ!』
『かえせかえせかえせってばっ』
『いてえっつってんだろはなせよ! ……うるせえやつだな、もういいオレがむこうを使う』
『あれはオイラんでしょ』
『これがいいんだろ』
『やっぱりあっちにする』
『じゃあそれかえせ』
『だめ!』
『ふざけんな! どっちかにしろ!』
『僕のシーツにすれば』
『はあ? おまえシーツもってないだろ』
『あるさ』
『どこに』
『もうつけてる』
『なにを』
『僕のシーツさ』
『うそつくな。なんもねえぞ』
『あれ、言ってなかったっけ。悪者には見えないんだ』
『……』
『……』
『あれ?』
『うわーん』
『えっマイキーどうして泣くの。僕なにかした?』
『……』
『……ラフ?』
 
 
 
 目を覚ますと、極彩色の光があたりをつつんでいた。雑誌で見たナイトクラブみたいだとレオナルドは考えた。薄いブランケットが首までかけられていて、色は白か茶色だと思うが、目だけを動かしてそっと下を見ると大きなハエが一匹とまっていた。重たい手を持ち上げてブランケットの表面を払うとハエは飛び去るどころか10匹に増えた。もう一度払うとまた倍に増えた。何度かするとブランケットの色が分からないほどまっくろにハエがたかった。レオナルドは慌ててブランケットを払いのけた。
 けれどハエはシーツに飛び移って、レオナルドが動く度に何百、何千とふえた。レオナルドはがばと起き上がり、光のまぶしい景色に手をやって、ベッドの端を掴もうとしたが、勢い余って転がり落ち、甲羅と頭を床にぶつけて変な声でうなった。
「どうした」
 だっだと、近づいてきた足が膝をつき、落ちたレオナルドをベッドの上へひっぱりあげようとしたが、レオナルドは甲羅の下でハエがたくさん潰れているのを想像してやめてくれと抵抗する。「なんだってんだ」困惑する声に、きれぎれの言葉で、
「むしが……」
 言うととたんに彼が身を引いた。
「虫?! どこだ!」
「たくさんいる……」
「はあ?……いねえぞ……なんだオレをびびらせようとしてんのか」
 結局無理矢理座らされて、手がシーツに触ってどきっとしたが、想像していたような感触はなかった。レオナルドは辺りに視線を走らせた。シーツに無数の黒い筋がついてみえる。けれど触れてもいびつさは感じない。やわらかいシーツだ。
「しわがよってるんだ……」
「ああ?」
「なおしてくれ」
「オレはメイドか。自分でやれ」
 言われてレオナルドはベッドに手を這わせて、しわをのばそうとした。けれど、なんどやっても筋は消えず、レオナルドはなぜだか悔しくて悔しくて仕方なくなり、こみあげてくるものを堪えて俯いた。すると、
「おいよせ。オレがやる」
 と言ってラファエロがレオナルドを床に敷いたゴザにいったん転がしておいてベッドからシーツをひっぺがし、ふわっと空中になびかせて元に戻した。いつの間にか落ちていた枕もばたばたと叩いて袋をはがしてからまた丁寧に戻す。そして寝転がっているレオナルドをずるずるとベッドまでひっぱりあげると、ブランケットを両手に持った。レオナルドが一瞬嫌な顔をする。ラファエロは口をへの字にしてブランケットをばさばさはたいてぴんと両手に持って伸ばしてみせ、レオナルドの顔色をうかがいながら、そっと皺がよらないよう注意して上にかけた。レオナルドは綺麗なブランケットに両手を置いて、
「……ありがとう」
 ラファエロが鼻を鳴らした。それからじっとレオナルドを見て、腕を組んだり解いたりして何か言いたそうに口を動かしたが、急に険しい顔つきになって目を反らした。そして早口に、
「何か食ったほうがいい」
 と言って、部屋を出て行った。何分か経って、レオナルドが部屋中に散る黒い皺をみないように目を瞑ってうとうとしていると、がしゃんと横で金物の鳴る音がして、顔の横に白いボウルとスプーン、牛乳パックが置かれた。レオナルドがまばたきする間に今度は透明なコップが現れてみるみるうちに黄金色の水でいっぱいに満ちた。冷えて汗をかくコップを手に取ろうと、身体を起こすと、ボウルの中に牛乳を注いでスプーンを突っ込むラファエロの手がみえた。節が赤く腫れて血が滲んでいる。
 どうかしたのかと聞く前にラファエロは甲羅を向けて出て行ってしまった。レオナルドは皺一つ無いベッドを乱さないよう慎重に起き上がると、サイドテーブルに置かれたコップを手にとって一口飲んだ。甘くて赤い香りがする。
 
 
 
『……どうしてこんな』
『悪人を殴るのに理由がいるか?』
『やりすぎだ』
『カタナは良くても拳はだめか。てめえのルールブックを開いてみたいもんだ』
『そんなやり方してたら、いつか後悔するぞ』
『後悔はしない、そのためにやってる』
『そういうふうには見えない』
『オレがわかってりゃいいんだよ』
『訳もわからないのに殴られたら、おまえだって嫌だろ?』
『いちいち罪状告げて殴ればオーケーなのか』
『そういうことじゃない』
『じゃあこいつらにやられた側はいまから強盗するだの殺すだの言われたのかよ。違うだろ。突然、理由もなく、めちゃくちゃに壊されたんだ。オレなんかまだぬるいくらいだぜ』
『おまえはどっちでもないじゃないか』
『てめえは誰の味方なんだよ』
『どっちでもない。でも、おまえはなりたいみたいだ、どっちかに』
『……見物人気分でいるよりは、はるかにましだと思うぜ?』
『……もう一人で外へはいくな。先生には俺から言っておく』
『悪いことはしてない。自分で言う』
『まて』
『なんだよオレ相手だと心臓発作でも起きるのか』
『一緒にいくよ』
『……ふん、そうか』
『一緒はいやか』
『いいや、役者は揃ってた方が良い。おまえは正義の味方でオレは悪者だからな』
 
 
 
 次に目が覚めたのは真夜中で、それが真夜中であることと、自分の部屋の自分のベッドにいると自覚できるほどにレオナルドは持ち直していた。ブランケットはまたいつの間にか首まであがって皺が寄らないよう、端をベッドの下に滑り込ませてあった。
 レオナルドはブランケットをはがして、両手を上に出し、長い息をした。いろいろなことを考えて歯をきしませたり涙ぐんだりし、薄闇の中ベッドサイドに手をやってコップをとったが、空だった。レオナルドはのそりと身体を起こした。みしみしと全身が鳴った。甲羅が重たく感じるのは初めてだった。コップを手に立ち上がり、ゆっくりと足を出したが、膝がふるえて力を入れるのに時間をくう。おそるおそる何歩か歩いて息を荒くしながらうつむき、「こいつめ」と足に文句を言って顔をあげると、いつのまにかラファエロが立っていた。その目はなぜか冷たく、家だというのに気配は完全に断たれていた。苦しそうに立つレオナルドからラファエロはコップを奪った。
「てめえがコケたらまたオレが面倒みるはめになんだろうが」
「もう大丈夫だ」
「大丈夫かはオレが決める。戻れ」
「まるで自分がリーダーみたいな口ぶりだな」
「勝手にうろつくからだ」
「トイレに行きたい」
「だめだ」
「ここでしていいのか」
 レオナルドが空笑いしてみせるが、ラファエロは、
「しろよ」
 は、は、とかろうじて続けていた笑みを飲み込んだ。
「……どうかしてるぞ」
 レオナルドはラファエロを押しのけようとしたが、ラファエロは腕を掴んで、ベッドまで引きずっていく。はねのけようとしたが力が入らない。彼の望む通りにだけはさせまいと、レオナルドは体重をかけて床に座りこむ作戦にでた。
 ラファエロは力ずくでひっぱり上げようとしたが、レオナルドも意地になって床に張り付き、そうさせなかった。
 ラファエロは持っていたコップをだあんと激しくテーブルに叩きつけた。その手の甲は前に見たときよりも赤く血が滲んで、皮までめくれていた。
「……わかった」
 呟いたラファエロがレオナルドの頭をわし掴む。目の前が真っ白に焼けて気が遠くなった。そのあいだにずるりずるりと引きずられて気がつくとベッドの上だ。レオナルドは破裂した風船みたいに暴れた。薄闇でもシーツに血が滲むのが目に入ってきた。ラファエロはのしかかって動かず、ついにレオナルドは力尽きて、こみあげる吐き気にうなるだけになった。そこで力をゆるめたラファエロの鼻先にレオナルドは渾身の力で肘を入れた、つもりだった。ぺちん、という虚しい音がして腕はベッドに落ちた。
 ラファエロの全身に真っ赤な気が満ちるのがみてとれた。瞳の律動が止まってじいっとレオナルドをみおろした。
「てつだってやるよ」
 ラファエロが肘でレオナルドの首を押さえ込んだ。じたじたいう手足を踏んで端で落ちかかっていたブランケットをレオナルドの足の間につっこんだ。
 とつぜんぐっと腹を押される感じがしてうめいた。指が腹を触って入ってきて驚きのあまり息をするのも忘れた。がっちりと首を押さえ込まれていたレオナルドにはラファエロの暗い顔のシルエットしかわからず、ただ感じるだけだった。次の瞬間、無遠慮に自分のをつまみだされてのけぞった。痛いと言ってもラファエロのおさえる手が強くなるくらいだった。くらくらする景色の中で、急に視界いっぱいの空が見え、鳥が一斉に飛び立った。感触がねばっこくなってくると、空はただの天井になって、呼吸するたび声が壁を騒がしくのぼって部屋にひろがった。やり方はほんとうに身勝手で、けれど傷つけるほどではなくて、先をいじるには繊細すぎるようだった。首を押さえていた腕は支える形に変わり、レオナルドの両手は、いいところを教えるだけの添え物になった。呼ばれた気がしてうっすらと目をあけると熱っぽくキスされるところだった。腹がぎゅっとせつなくなって身体中がふるえ彼の舌を噛んだ。噛み返されると自分とは違う手の中であっという間に達した。終わったと思ったら、それは細切れになっただけで頂点は長く、いきかたは無限にあった。こぼれたものはついに手では足らなくなってブランケットにつつまれびくびく震えて起毛に染みこんだ。黒くなるほどに。
 
 
 
 
 よくあさ、レオナルドはばっと起き上がって辺りをみまわした。見る限りベッドもシーツも綺麗で乱れてはいなかった。身体にかかっているブランケットは別のものに変わっていたが、前のは畳んでテーブルにおいてあるだけだ。ほっとして頭に手をやると瘤は前よりも小さくなっており、視界は晴れ、曇り一つ無い。起き上がってそっと息をついてぶるぶる頭をふって残る痛みにうなった。落ち着くとレオナルドは床についた自分の両足からそっと視線をあげて、サイドテーブルの上に畳んであるブランケットにおそるおそる手を伸ばした。折り目をゆっくり持ち上げていくと、奥に黒いものがみえた。
「レオ!」
 声をかけられて慌てて手を離した。ミケランジェロが入り口に立ってたらーんという効果音つきでポーズをとった。
「もう下でご飯食べていいんでしょ」
「え?……ああ、いや、どうだろう」
「ラフがいいって言ったよ」
「そうなのか?」
 示し合わせたようにラファエロが部屋に入ってくるのがみえた。
「もうてめえの面倒はみねえ」
 低い声で言い、ベッドサイドに置いたブランケットをさっと掴んで出て行った。行きしなに「早くつれてけ」とミケランジェロを促して。
 レオナルドはミケランジェロの甲羅を借りてとぼとぼ歩いて部屋を出た。天井で花火みたいな灯りが散っていて、きゅいーんという機械音もした。ドナテロが自分で築いたがらくたの山で遊んでいるのだ。長いスロープを降りて、申し訳程度に片付けられたキッチンへやってくると、レオナルドは食卓の端によせただけのピザケースの塔と一緒に、二振りの刀をみつけた。一本をとって引き抜くと刃はぴかぴかに輝いて覗き込むレオナルドとミケランジェロの顔を映し込んだ。
「磨いたんだ」
「……そうか」
 ふふふんと鼻を鳴らすミケランジェロがドナテロを呼んでくるといって、がらくたの山によじのぼって消えた。レオナルドは刀を置いて椅子に腰掛け、まるで知らない場所にいるようにちらちらと視線を走らせた。キッチンの蛇口からぽつぽつと水が零れており、立ち上がって蛇口を締めにいった。席に戻ろうと振り返ると、丁度先生が杖をつきつき部屋から出てくるのがみえた。レオナルドはびくっと肩を持ち上げて堅くなったが、先生はいつも通り穏やかな顔に髭をぴんとたててレオナルドの方へやってくると「気分はどうだ」と声をかけてくれた。ミケランジェロがドナテロを連れて戻ってきて、ピザの箱を片付け、冷蔵庫からバナナやリンゴやグレープフルーツを出した。隣の椅子に座ってフルーツをジャグリングしはじめたミケランジェロに、犬はどうなったか聞いた。
「持ち主のところに帰ってげんきにしてるよ、ドニーがラジオで聞いたって」
「収まるところに収まったわけだよ」
 ドナテロがグレープフルーツをナイフでふたつにわけながら言った。
「わしは許しとらんからな」
「でも先生、オイラたち強くなったでしょ」
 弁解するミケランジェロの隣で、ドナテロが腕を伸ばしてボウガンを持つ構えをする。
「もう外しませんよ。そうそう、専用のゴーグルを作ったんだよ、みる?」
 ドナテロが嬉しそうに言うので、レオナルドは黙って頷いた。嬉々としてがらくたの山に戻っていくドナテロを見ながらミケランジェロが、
「一週間は出てこないね」
 と、バナナを皮ごと頬張った。
「マイキー」
「ん?」
「犬のことはいいのか」
 ミケランジェロはもぐもぐと口を動かしながら、
「もういいよ」
「先生」
「なんじゃ」
「マイキーは犬が飼いたいんだそうです」
「いいってば」
 ミケランジェロはバナナを飲み込んでべろんと口のまわりをなめた。
「犬は飼ったことあるし」
「いつ」
「茶色い尻尾の長いやつ」
 ぽいとへたをキッチンに投げる。
「殺されたんだ。だからもういいよ。こりごりってやつ?」
「マイキー、」
「ちょっとちょっともーそういうのきらいなんだよね。はいおわりー。オイラは犬を飼いませーん」
「俺が悪かったんだ。お前のはなしをちゃんと聞いてやらなかったから」
「タートルズ的には大成功じゃん?」
 かかかとミケランジェロは笑ったが、すぐにはっと口を抑え、小さな声で「ごめん」と言って席を立って行ってしまった。レオナルドはテーブルに転がったリンゴを見下ろした。 先生は髭を撫でながらそんなレオナルドを見ていた。
「鍛錬がいるな」
「え?」
「おまえたちが好きに外にでられるように」
「でも俺はもう、」
「おまえはリーダーとして立派に兄弟を守った。あとは経験実戦、日々の鍛錬じゃ」
 レオナルドは驚いて顔をあげた。先生は椅子から立ち上がって腰をまっすぐにのばし、
「わしもすこしなまけとったからな」
 と、杖をふりふり、道場へと歩き出す。途中尻尾をねかせて振り返った先生が言った。
「みんなを集めてくれるか。今日からはちょいと厳しくいこうかの」
 レオナルドはすっと姿勢を正し、
「はい先生」
 それからすぐがらくた山にかけていってドナテロをひっぱりだし、ボードを遊ばせているミケランジェロを連行してきた。そして上の階に向かって「ラフ!」と呼んだが、いつまで経っても、彼は現れなかった。
 
 
 
 
 朝方、ガレージにバイクが乗り入れてがるんとエンジンをふかしてとまった。灰色のトレーナーに黒いメットをしたラファエロが、バイクから降りてゆっくりとタイヤを転がして壊れた車の間にある大きな木箱にバイクを入れてエンジンを切った。脱いだメットとトレーナーをシートに並べて木箱の扉を閉め、ぶあつい防水シートを被せて目立たないようにする。
 ぱっぱっと手の汚れを払っているラファエロのところへ、レオナルドはわざと気配を尖らせて近寄っていった。甲羅に刀を背負い、カットバンつきの頭を傾けてラファエロの前に立つ。ラファエロはとくに驚く様子もなく無表情だった。レオナルドは一言、
「うそつきめ」
 と言った。
「おまえの言ったことは全部でたらめじゃないか。俺をびびらせたかったのか」
 ラファエロは目線を下にやって、腰帯に指をかけた。
「成功したな。見たいものは見られたか、俺がびびって混乱するのを見たかったんだろ?」
 レオナルドは右へ左へ歩き回りながら話した。
「甲斐甲斐しく世話してやったら俺がなつくと思ったのか。おまえを認めるとでも?」
 長い間があった。ラファエロはつい今し方気がつきましたとでもいうように顔をあげ、抑揚のない声で答えた。
「そうだ」
 レオナルドは自分の身体が怒りで震えるのを感じた。ごうっと耳の中で血のめぐる音がするほどだった。ぐっとこらえて、レオナルドは口を開いた。
「……礼を言ったな。あれを取り消す。全部だ。これからもな」
 ラファエロは影のように立っているだけで、反応すら見せなかった。目はレオナルドを見てはいたが、瞳が透き通ってずっと遠くをみつめている。レオナルドは気持ちが収まらずにその場をぐるぐる歩き回り、頭から離れないあれのことを聞くべきだと思い至った。けれど、その間もつまらなさそうにサイの柄を弄っているラファエロを前にすると、どうすることもできずに立ち去るしかなかった。途中、立ち止まって耳を澄ませてみたが、ぎぎいばん、と木箱を開閉する音とバイクのエンジン音がして、あっという間に遠ざかっていった。
 レオナルドはがしがし歩いて家へたどり着くと、まっすぐ自分の部屋へ戻って、うろうろうろうろうろうろ部屋中を歩き回った。気を抜くと叫んでしまいそうになる。落ち着こうと深く息を吐いて瞑想の姿勢に入っても、あれらのことが頭の大半を支配していた。細部までありありと蘇って色までついている始末だった。しばらくは自制心を持って戦っていたが、ブランケットと黄金色のコップが見えたとき、レオナルドはばっと立ち上がって壁にかけていき、がんっ! と拳を壁にうちつけた。ひとつでも景色が浮かんだら殴る。それを何度も何度も繰り返した。拳の感覚がなくなって、じわじわと痛みが思考を乗っ取りはじめる。そこまでしてようやく息をついたレオナルドは、両手の節が真っ赤になって血が滲み、皮までめくれていることに気がついた。
 
 
 
 
 そのよる、ミケランジェロがテレビを見ていて、レオナルドはキッチンに立っていた。ドナテロはがらくた山の中にいて、みんなのぶんのゴーグルもつくると張り切っていた。レオナルドは流しっぱなしの水道水につけた手を抜いて、節の腫れがだいぶましになったのを確かめた。同じタイミングで部屋から先生が出てきてソファに腰掛け、テレビドラマにチャンネルを変えた。クイズ番組を見ていたミケランジェロがえーと文句を言うが、結局ふたり揃ってテレビドラマを見ることになる。
 がたんと家の扉が開く音がしてレオナルドは顔をあげた。ラファエロが、自分の部屋へ向かうところだった。気配は消していない。「ラフ!」レオナルドが呼ぶと、ぴた、と足をとめて、ちらりとこちらをみる。
「来い」
「……」
「いいから来い」
 ラファエロはちらちらと兄弟達の様子をみながら、少しずつ近くへやってきてレオナルドとテーブル越しに向かい合った。視線は明後日の方を向いたままだ。
「座れ」
「……」
 レオナルドが椅子をひいて腰掛けると、ラファエロもしぶしぶといった様子で向かいの椅子をひいてテーブルから離れた場所で腰掛けた。レオナルドが両手をテーブルに置いて身を乗り出すと、ラファエロは心底嫌そうにのけぞった。黙って見ているだけのレオナルドに、「説教でもなんでもすりゃあいいだろ」といらついた声が言い、これ以上の詮索はするなとでもいうように胸の前でがっちり腕を組んだ。その手の甲は昨日見たときよりも赤く腫れて傷だらけだった。散々皮がめくれて治ったあとがたくさん残っていた。
「ラフ」
「なんだよ」
「ラフ」
 二度呼ぶとやっとラファエロはレオナルドの方を向いた。レオナルドはテーブルにひじをついて、自分の両手の甲をかかげてみせた。とっさに身構えたラファエロの目が、じっとレオナルドの手をとらえて小刻みにゆれはじめた。レオナルドがかかげた指をゆらめかせてやると、ラファエロは堅く組んでいた自分の手とレオナルドのそれを見比べて長い息をつき、椅子に座り直した。そわそわと足をゆすりながらテレビドラマをみているミケランジェロと先生を眺めて目を細めたり、こぼれんばかりに開いたりした。それから思い切ったように椅子をテーブルの近くへ寄せ、自らの両手をあげて、その甲が見えるようにテーブルのうえに置いた。レオナルドもそれにならった。二人はテーブルの上に互い違いに両手を置いて真っ直ぐ向き合った。お互いの目の奥が答えと問いを同時に持っていた。
 そこへ「あー」と突然ミケランジェロが叫んで二人は両手をひっこめる。
 テレビを見ていたミケランジェロが振り返り、きらきらした目でふたりに向かってこう叫んだのだ。
「オイラ、猫飼うことにしたから!」
 そうしてまたすぐテレビに戻る。そんなミケランジェロの後ろ頭を眺めていたレオナルドがぼそっと、
「……だから言ったじゃないか、」
 ラファエロの視線が向くのを感じて、血の滲む右手で横顔に傘をさす。
「いつか後悔する≠チて」
 ふっとラファエロが笑う声がした。ごつと椅子に甲羅をつける音。テーブルの下で足がリラックスする。
「後悔はしない。悪者だからな」
 そういってふたりは自分からも見えないようなテーブルの隅っこで、互いの傷ついた手を探している。
 まだ。あとすこし。
 
 
 
 
 
 
 







 
おしまい