猫は飛んでいく
 
 





 
 
 
 ひかれた猫をみた。
 
 ちょっと見ている間に清掃員が現れてスコップで運んでいった。そのときはいたたまれない気持ちになったものの、壁をよじ登っている最中ではそれ以上感想を持つことができなかった。季節変わりの強い風が吹いて、ベランダにはミルクブルーのスカートが何枚も干してある。中東の国民学校の学生達は日によってスカートの色を変えているのだ。今日はブルーだから水曜日である。見上げると、アパートの壁と壁の間が紅から群青に変わるところだった。
 街灯がぽつとオレンジの火をともす。その火が完全な光になる前にパイプの渦から向け出さなければならない。ラファエロはぶらさがっていたベランダの桟を持って身体を持ち上げた。洗濯紐から半月型した窓のひさしを伝っていく。塗り固められた煉瓦を掴んで身体を持ち上げる。足がひさしを踏んでぱきといまにも折れそうな音を立てる。パイプへ乗り移って両腕で屋上のへりを掴むと、ぱっと夕焼けが差して目を細めた。
 真っ赤なコンクリートの地面へ思い切り転がり落ちる。空に障害は消え、ラファエロは上下する胸を撫でて冷たい空気を吸った。屋上のへりにのせたつまさきに出たばかりの月がのっかっていた。そこへぬっとへりを掴む別の手が現れる。緑色の指がへりをなぞって掴みやすい場所を探している。寝転んだまま見ているとぱきんっと音がして指がずるりと滑り、ラファエロは飛び起きてその手をつかんでいた。
 プラスチックのひさしが暗い路地に落ちていくのがみえた。掴んだ腕と身体がゆらゆら空中にゆれる。冷や汗が鼻先を伝っている。
「あぶなかった」
 清涼感溢れる声で言ってレオナルドが見上げた。青い目に夕焼けが差している。ため息をついてもう片方の腕を出してがっちり掴む。引き寄せてへりまで上げてやると、足を上手に使ってぴょんと登ってくる。ほっとして手を離すと、すぐに掴み返された。レオナルドが目を細くしてラファエロをみつめている。
「なんか熱いな」
 その手をぱしと払いのけて、
「ごまかすな」
 レオナルドがにやりと笑う。とんとんとその胸をついてラファエロは念を押す。
「オレの勝ちだぞ」
「わかった」
「オレが一時間だな」
「ああいいよ。俺の観たいテレビは三十分だし」
「一週間だぞ」
「しつこいな」
 レオナルドはまだ息があがっていて、鼻先に光る汗を拭って頷く。ラファエロがへりに腰掛けると自分もぴょんと隣に座って足をぶらぶら。
「たかいな」
 楽しそうにのぞき込んでいる。
 ラファエロは細い路地を見下ろした。
「なにをみてる」
 隣で興味深げに顔を寄せて同じ路地を見下ろしてくるが、
「猫がひかれたよな」
「うん?」
 彼はさっきの猫を知らないようだ。黒い猫だった。ラファエロは胸の中だけで言った。
「いたか?」
「可哀相だった。道をまっすぐ渡るからいけないんだ」
 レオナルドはどこ吹く風で空を見上げていた。
「道の向こうに意中の相手でもいたとか」
「分かってたら助けた」
「ラフは優しいな」
 ラファエロはしかめつらになった。ばんっとレオナルドが甲羅を叩いてなでさする。
「俺はおまえに夢中で気がつかなかったよ」
 言われて顔をあげるとレオナルドの目の中に驚いているラファエロの顔が映る。その目が糸をひくみたいににんまりと細められた。
「次はなにする?」
「……さあ」
 ラファエロがしかめつらのまま答えると、レオナルドはふーんと鼻を鳴らしてまた空を見上げた。何か考え事をしている黒目の上を雲が何個も通り過ぎていった。ラファエロは肘をついたまま、ちらちらと横目でレオナルドを見て、自分も空を見た。
「何かあるのか」
「俺もないけど」
「なんだ」
「なにもないよ」
「けどって言ったぞ」
「言ったかな」
 ラファエロはため息をついてまた路地に目を戻した。アスファルトについた茶色い痕の上を車が猛スピードで通り過ぎていく。隣でゆらゆらしていた足が止まり、こんこんと甲羅を鳴らされる。レオナルドが上を指さして、星がきらめいているのを教える。そのまましばらく空を見ていたが、しばらくすると視線はやっぱり路地に戻ってしまう。レオナルドが話すのに、あーうんうんと適当に頷いていると少々乱暴に肩を押されて驚いた。
「なんだよ」
「おまえが誘ったんだぞ」
「だからなんだよ」
「もういい」
「なにキレてんだ」
「キレてないさ。おまえじゃあるまいし」
 レオナルドは立ち上がって、ラファエロを見下ろした。月明かりに青い目がまばたきする。
「帰るぞ」
 え? と困惑するラファエロを待たずにレオナルドはベランダにとんっと飛び移って階段を降りていく。二階までくると柵を乗り越え地面に降りて屋上にいるラファエロを見上げて言った。
「アメリカには六千万の飼い猫とその倍の野良猫がいる。轢かれるのはその一割だ」
 暗い中でレオナルドの目だけが怪しく光った。
「ほとんどは殺処分される」
「だから轢かれる方がましだとか言うなよ」
「言ってないよ。教えただけだ」
「余計なお世話だ」
「そうか、悪かった」
 レオナルドは路地の向こうに行ってしまう。うず高くゴミの積まれた壁を乗り越えて。じっと目をこらしていると、ゴミを漁る小さな生き物の目が何個も光ってうろついているのが見えた。
 
 
 
 その晩から同じ夢を見るようになった。自分が猫になって路地を彷徨いている夢だ。街中をうろついて始終何かを探しているのだが、みつけた、と思ったとたんに光りに包まれて夢は終わる。最初は楽しかったが、それが毎日ともなると。
 困り果てて、ついにラファエロは我が家で一番理性ある兄弟に打ち明けてみた。彼は肘掛け椅子に座って話を一通り聞いたあとくるりと回転しながら、こう言った。
「疲れてるんじゃない?」
 肩を落としたラファエロに彼は続けた。
「同じ夢だけど実はそうじゃないとか。思い込みだよそんなの」
「つかえねえ野郎だな」
「僕を使うつもりでいたわけ」
 歯抜けの顔で笑いながら彼は、
「僕だって同じ夢を何度も見ることあるけど、たいてい気になることが片付いてないときだね」つんつんと歯の抜けたところを指で抑えて空中に視線を泳がせる。「あとは好きなこととか、食べたいものとか」「マイキーかよ」「いいね、あいつに聞いてみれば? しょっちゅう寝てるし。何か壮大な夢でも観てるんじゃない?」
 そう言って本のページをめくる兄弟の言葉を真に受けたラファエロは、その足でもう一人の兄弟を起こしにいった。
 彼はソファの背にあごをのせたまま、鼻風船をぷうぷういわせて寝ていた。身体は床に正座をしたままだ。先生のおしおきも彼には時間割をこなしているのと同じようなものだった。ラファエロは鼻風船をぱちんと割った。
「おっ」
 ぱっと水色の目がこちらを向いた。
「いま、なんの夢みてた」
「オイラが?」
「そうだ」
 ミケランジェロが大きな口を開いた。ラファエロは目の前で立ちつくして待ったが、大きな口のなかの咽ちんこまでよく見えるだけだった。
 さっときびすを返そうとするラファエロの足首を、ミケランジェロが慌てて掴んで言った。
「そういやさ」
「なんだよ」
「夜おまえがうんうん唸ってんのは、なんで?」
「誰が」
「オイラとなりの部屋だからよく聞こえんだよね」
「唸ってる? 俺が?」
「いびきがうるせーのは慣れたけど、あれはやめてくんないかな」
 ラファエロは腕を組んで俯いた。ミケランジェロは正座しっぱなしだった足をひきずりながらソファにうんしょと腰掛けた。ぽんぽんと隣を叩くので、ラファエロはのしと足からソファに乗ってミケランジェロと顔を合わせる。
「猫の、」
「猫!?」
「はえーよ」
「猫好きだよ。それで?」
「猫の夢を毎日みてる。車道でひかれた猫だ」
「おまえがひいた?」
「ひかれたのをみてただけだ」
「ふーん」
 ちりんと音がして、道場からレオナルドが出てきた。通りかかるときにちらっとこちらをみて、でも何も言わずに自分の部屋へ向かう。ラファエロはその後ろ姿を目で追いながら、
「あいつも隣の部屋だよな?」
「なに」
「おまえで俺でレオの順だろ。おまえはうるせえって言っててあいつはなんで何も言わない」
「耳栓してんだよ」
「ああ、そうか」
「たぶんね」
「だろうな」
「ところでさ」
 ミケランジェロが正座してラファエロと向き合う。その真剣な表情にラファエロも姿勢を正す。
「今夜オイラと一緒に寝てみない?」
「殺す気か」
「猫の夢とかちょう羨ましい」
「じゃれてる夢じゃないんだ。視線は低いしいちいち身体が跳ねるし痒いところはかけねえし虫はいるしくせえし、最悪だ」
「おまえがうまく操作できないだけだよ。以心伝心同じ枕で寝たら参戦できるかも」
「なにがしたいんだおまえは」
「嫌なら、先生と寝れば」
 組んだ腕を左右に振りながら言うミケランジェロに、ラファエロは仕方なくわかったと言った。
「じゃ決まり!」
 家中に大声で響き渡るようにミケランジェロが宣言し、ラファエロはがっくり肩を落としながら、ハンモックの耐久性について考えた。
 
 
 
 毛を逆立ててあくびをした。あらあかわいいわねえと両手を合わせた婆さんが尻尾の付け根を撫ではじめる。だめよおばあちゃんバイキンがいるのよ、と孫は言う。ラファエロは俯いたままその場を回転した。コンクリートに猫のシルエットが映っていた。突然うしろ足を掴まれて慌てて婆さんを蹴って逃れると、まだ幼い孫が怒って腹をけりかえされた。ぐえ、と言ってラファエロはその場を離れた。一心に細い道を走っていると、ぱりんっと真上で音がしてびくっと止まる。ひゅうるるると風をきりながらアパートの狭い空を皿が一枚横切ってラファエロの目の前でぱりんっとくだけた。すかさずひょんと飛んで離れたものの、一部がぶつかったらしく鼻に激痛が走った。近くにあったゴミに顔をなすりつけるが痛みは増すばかり。ラファエロは道にあるもの全てに鼻を擦りつけながら歩いた。すぐそこの角を曲がれば寝床なのに、その角へつくまでに空はゆっくりと灰色になり、空気がしんと冷たくなっていった。いくらか痛みは治まったもののまだ重たい鼻を落として角を曲がったラファエロは、たくさんの匂いに気がついて顔をあげた。薄闇で黄色い目がこちらをみていた。茶色と黒のとら猫たちだった。どこか外国混じりの顔をした大きな体のとら猫は、ラファエロが寝床にしていた赤毛の女の子のぬいぐるみに噛み付いてひっぱっていた。いまにも首がもげそうになって、かっとなったラファエロは、山積みになった木箱に飛び乗りその大とら猫の顔めがけ、電光石火の爪をお見舞いしてやった。とら猫の毛がぱっと辺りに散って身体はがらんごろんと地面に落ちた。ラファエロは女の子のぬいぐるみの上で踏ん張ってううなううなと鳴いた。いつの間にか世界は夜に向けて日の光を折りたたみはじめていた。下でたむろしていた猫たちの目が暗い中でぽつりぽつりと薄緑色に光ってラファエロを見ている。
 
 
 翌朝目が覚めると一緒に寝ていたはずのミケランジェロがいなかった。なんだか身体がぐったりと重く、ラファエロは俯きながらキッチンへと歩いていった。冷たい冷蔵庫の扉を開けて頭を突っ込み、しばらくその冷気に当たっていると、とんとん、と甲羅をつかれて顔をあげた。
 どこか冷めた顔したレオナルドがそこに立っていた。ラファエロはなんだか嫌な感じがして目を反らし、冷蔵庫からリッターのコーラをとってぷしと蓋をあけた。
「おい」
 心持ち顎を上向きにしながらレオナルドは言った。
「マイキーになにしたんだ」
「なにもしてない」
「ゆうべ泣きながら俺の部屋へきたぞ」
「なんだって」
「ラフがこわい≠ニさ」
 ラファエロは笑ってリッターのコーラを半分あけた。
「もう顔を見たくないそうだ」
「どこにいる」
「俺の部屋だよ」
 ラファエロがコーラを片手にレオナルドの部屋へ向かおうとすると甲羅のへりを掴まれる。
「やめとけ」
「謝りに行くんだよ。いいだろ」
「あとにしろ。落ち着いてから話した方が良い」
 ラファエロはコーラをまた一口飲んで、レオナルドを見た。
「俺がどんなふうに恐いって言ってた」
「マイキーを寝床から突き落として、」
 ラファエロは顔をしかめた。
「四つ足で追いかけてきたって」
「まじか」
「だったら恐いよな」
「おい!」
 レオナルドは何が可笑しかったのか、咳をするみたいに笑っていた。
「猫の夢を見てるんだって?」
「だからなんだ」
「どんな夢なんだそれは」
 ラファエロは鼻で笑ってコーラを煽ろうとしたが、ぽんとボトルの口を塞がれた。
「それは黒い猫か」
 持っていたコーラがちゃぷんと波立った。
「お前がなってる夢か、それとも見てるだけか」
「……なんで知ってる」
「知ってるよ。あのあとどうなったかも全部見た」
 その手でコーラを横取りされる。
「教えてくれないか。」
 ラファエロはなんだか見覚えがあるようなレオナルドの光る目を見て、ふっと思い出した。
 
 
 
 なんとか路地から抜け出して石畳の舗道に出た。とら猫たちはもう追ってはこなかった。雨が降り出して、庭木の下にいたラファエロの身体は真っ黒い雑巾みたいになっていた。道行く人の大半がラファエロに気がつかず、尻尾を踏まれることもあったが、もう何も感じないくらい、身体はくたびれていた。むせ返るような土の匂いに鼻を埋めたまま、石畳を歩く人々の足並みと車の行き来を眺めていると、大きな通りの向こう側に、煉瓦造りのアパートが建っているのが見えた。そのアパートのほとんどの窓はカーテンで締め切られていたが、二階の角部屋の出窓だけが煌々と明るく、オレンジ色に灯っている。ラファエロがもうほとんど開かない目でそれを見ていると、時季外れのポインセチアの花びらの隙間から、白い、もう本当に真っ白な一匹の猫が現れた。あんなに白い猫は見たことがない。冬の空を舞い落ちる雪か、昔飼い猫だったころに寝ていた部屋の壁が、あんなふうな色だった。
 そうしているうちに雨が止んで朝が訪れた。身体は相変わらず動かなかったが、アパートの明かりはまだ灯っていた。じっと見ているとポインセチアが揺れてまたあの猫が姿を見せた。こちらに気がついているのかいないのか、階下を見下ろしながらすっと首を伸ばしている。 太陽が高くなると、ラファエロの身体はすっかり乾いて狂おしい程の痛みが襲ってきた。爪で引き裂かれた傷口が乾いてぱっくり開くのが分かった。咽に詰まった綿をなんとか吐き出す。綿には人形の赤い毛糸が絡みついている。気を失うほど腹が減って、車通りの多い道路に何か落ちてないか目を走らせたが、排気ガスの匂いしかしない。諦めて眠りに落ちかけたとき、通りの向こうに一台のバンが停まって、騒がしい声がしはじめた。大きなバンの扉が開いて椅子や箪笥やテーブルが積み込まれはじめる。見上げるとアパートのあの出窓にはぴったりとカーテンがされていて、真っ白い猫の姿がない。
 バンに荷物を積み込んだあと、やたらと騒がしい人間達がアパートの階段を降りてきて舗道に立った。男と女の二人組。女の方はホールケーキみたいな手提げ鞄を大事に腕に抱えていた。いざ、彼らがバンに乗り込もうとしたとき、女の抱えた鞄が生き物みたいに動いて地面に落ちる。きゃっという声。鞄のジッパーをこじ開けて中から出てきたのは綿のように白いあの猫だ。ポインセチアに隠れて見えなかった尻尾の先まで、本当に白い。白猫は抱き上げようとする腕をさっとかわして道路に飛び出した。ぱぱーっという車のクラクションをものともせずに白猫はこちらに走ってくる。ラファエロのいる茂みに真っ直ぐ向かってきたのだ。枝を揺らしてするりと立ち現れたその猫は、間近で見ると本当に同じ猫かと思うほど背筋のしゃんとした猫だった。水晶玉のような目と琥珀色の鼻。肌触りの良さそうな毛並み、ピンク色の耳。そいつは音も立てずに近寄ってきて、ラファエロの吐き出した綿や、耳の後ろを嗅ぎはじめる。全身にある裂傷をみつけて、ちょっと顔をひっこめたものの、そう間を置かずにまた首をのばして傷を舐めだした。丹念に。あまりの痛みにラファエロはううううう唸った。最後には声も上げられなくなってぐったりするラファエロの耳の後ろをもう一度舐めた白猫は、突然ぴんと耳を立ててふわっとその場を離れる。
 駆け寄ってきた人間が茂みをかきわけて二匹をみつけ、うわっと驚いた声をあげた。震える手がラファエロを撫でようとしてやめ、深い溜息が続いた。女はそばでじっと見ていた白猫を抱き上げると、その耳に優しく囁く。
「その子はもうだめよ」
 たたた、と走る人間の足音とバンの唸る音。
 全てが通り過ぎたあと、ラファエロがそっと目を開けると丁度夕焼けがアスファルトに伸びてくるところだった。空腹過ぎるせいなのか、痛みはさほど感じず、頭がいやにすっきりしていた。身体が空を飛べそうなくらい軽い。ラファエロはのそりと頭を持ち上げて茂みから顔を出した。真っ赤に染まる煉瓦のアパートを見上げる。出窓は全て開け放たれ、風がカーテンを連れて踊っているところだった。角部屋からポインセチアが覗いていて、その後ろで何かが動いている気がした。ラファエロは雲の上を歩くようにふらりと茂みの外へ出た。街灯がじわりと明かりを握って輝く。強い風にカーテンがはためいて、ポインセチアの赤い葉がひらと動いた。
 
 
 
 ラファエロが冷蔵庫の扉を強く閉めるとレオナルドは目を見開いた。
「それで?」
「おしまいだ。」
「その先が知りたいんだ」
「じゃあ今夜俺と一緒に寝てみたらいい」
「え、」
 ラファエロは笑った。
「以心伝心同じ枕で寝たら参戦できるかもな」
 これで終わりだと思って部屋へ戻ろうとしたラファエロは、うーんと真剣に考えるレオナルドを見て、言う相手を間違えたらしいと、気がつく。
「たしかにそうだ」
 ぴんと顔の横に指を立てて彼が言う。
「いやこれはたんに、」
「なんだ」
「冗談……枕持ってねえし」
「俺はあるぞ」
 二人も寝れるかな、と呟くレオナルドの姿がなんだか遠くに見えてラファエロは高い天井を仰ぐ。一列に並んだドーナツ型の電球がちかちか点滅していた。
 
 
 
 
 
 
 白猫は飼い主の腕の中から飛び出して、荷台の荷物に飛び乗ったり降りたりを繰りかえした。捕まえようとすると足をばたつかせて天井まで届きそうな勢いで飛ぶ。窓ガラスを引っ掻きはじめたところでついに、
「やめなさい!」
 飼い主が叱ると項垂れて、その場をぐるぐる回りながらううなううなと鳴きだした。信号で止まるたび隣りの車の運転手が何事かとこちらを覗いてくるほどだ。飼い主はどうしたものかと鍵つきのケージに入れてふたをした。
 猫はだんだん大人しくなった。しばらくするといったいなぜ自分がそこまで興奮していたのか思い出せなくなった。ようやく一息ついたところで飼い主に缶詰を与えられて、夢中になって食べていると、きゃっと声がして車がとまった。
「どうしたの」
「急に飛び出して来たんだ。轢いたかもしれない」
「たしかめてきてよ」
 がたんと車が路肩によって、重そうなドアが開くと男がひとり出て行った。白猫は差し込む光にはっと顔をあげ、いまさっきまで食べていた缶詰をひっくり返してゲージの中をぐるぐる周りだす。
 そうしないうちに戻ってきた男はシートベルトをしながら、
「端によせてきた」
「大丈夫なの」
「このへんは多いんだ」
 車のエンジンがかかって、ゆっくりと路肩から離れる。白猫はゲージから出されて女の腕の中でじっと身体を丸めていた。
「なにをひいたの」
 窓の向こうから真っ白い光が向かってくる。白猫が思わず毛玉みたいに丸くなると対向車線を大きなダンプが轟音を立てて通り過ぎていった。大音量でラジオを聞いているらしく、リズムに乗ったテールランプが、帯を残して向こうへ消えていくのを目で追った。とたんにぱっと手を離されて白猫は床に降りて人間達を見あげる。女が運転席に身を乗り出して、男となにか言い争っている。しかたなかった≠ニかしんじられない≠ニかひどいひと≠ニか。車は赤信号で停まって、言い争う声は音量を上げる。
 白猫はドアノブに飛び乗って僅かに開いた窓の隙間からするりと外へ忍び出た。路面に降りてささっと左右を確認すると、白猫は車道に伸びるオレンジ色の一本線の上に立ち、車が辿った道を真っ直ぐに戻りはじめた。
 
 
 
 黒猫は地面に爪を立て、いまにも飛びそうな身体を無理矢理抑えつけていた。気を抜くと尻から持ち上がってしまうのだ。向かいの舗道まではまだ遠く、車線をわけるぴかぴかのラインを越えるのが、とんでもなく難しいと感じた。爪の感覚がなくなってくると、鼻の先にある何か大事な物を手放さざるを得なかった。身体の中を一陣の風がふきぬける。
 猫は前足の爪だけで地面をひっかけ、後ろ足を天に向けて宙づりになった。空は濃紺に染まり、白い星がきらめいているがその隙間は底なしの暗闇だ。恐怖で全身がうなりをあげ、なんでどうしてと噴き出す疑問が大きなな怒りにとって変わる。うわーんと人間の子どものような声が出た。鳴いた口からどろどろの黒いものが流れ出て、そこら中にべたべた張り付いた。大きなダンプがやってきて、猫は渾身の力でアスファルトにしがみついたが、そのあまりにも巨大な力にあらがえず、ひっかけていた最後の爪をぱりんとひきはがされてしまう。
 猫はくるくる回りながら宙に放り出された。身体は道路を渡るより早く向かいのアパートの二階へたどり着き、一握りの残された力で猫はそこの出窓を覗き込んだ。けれどあのポインセチアは誰かの手によって持ち出されてしまったのか見あたらず、どの出窓も明かりは消えてまったく同じものに見えた。
 口から漏れるのは、もはや泥のような魂だけだった。猫はすっかり諦めて、自身のいたらなさと愚かさでその小さな心臓を痛めつづけた。
 天に身を任せて俯いた猫が、最後に居た場所にうつろな視線を落とす。すると、道路に敷いた一本線の上を一匹の白猫が走ってくるのが見えた。何か探しているのか路肩の茂みに頭を突っ込んでは鳴き、突っ込んでは鳴きを繰り返している。
 朦朧としていた黒猫は、前足を動かして弱々しく宙をかき、うううなうううなと鳴いた。白猫が茂みから顔をあげて黒猫の方を見上げる。もうアパートの最上階まで上り詰めていた黒猫は、自分を見てなーんと返す白猫の呼応を聞く。
 黒猫は自分をどろどろと渦巻いていた黒い物が、柔らかい風に変わるのを感じる。前足と後ろ足で空をかくと、思った方向へ進めるようになっていることに気が付く。黒猫は風にのってアパートや路地を駆けめぐり、白猫の鼻先をぱっと横切って驚かせる。空には満点の星が輝き、アパートの出窓は全て明かりが灯る。くすぶる太陽が地平線を過ぎると、黒猫は螺旋階段を昇るように上へ上へと昇り始める。アパートより高くまで来て見わたせば、自分と同じような猫があちこちの空に飛んでいる。数え切れないくらいの猫たち。
 名残惜しく給水塔の周りを時間を掛けてぐるりと回っていると、誰かがアパートの屋上に腰掛けているのをみつける。人間でも猫でもない、不思議な姿の二人組だ。一人は路地を見下ろして深刻な顔をし、もう一人は空を見ている。黒猫がすうっと前を通り過ぎるとうちの一人と目があった。特に驚いた様子もなく、すたすたと空中を歩く猫にそっと手をあげて挨拶する。隣にいた一人の背中を叩いて空へ登る黒猫を指さすが、もう一人にはこちらが見えていないようだった。猫はなんだか難しい顔をしているそいつを哀れに思って一度だけううなと鳴いたあと、決然と世界に背を向けてもういっぺんたりとも迷わなかった。
 
 
 
 
 
 はっと目が覚めてまたあの路地かと思い、身体を強張らせた。気配がしたからだ。両腕をついて呻りかけてはたと気がつく。自分がいるのは石の道でも湿った土でもない。ぱたっと肩から落ちた腕はよく知った兄弟の手だ。まとわりつくシーツを引っぺがして辺りを見回した。小さな本棚と机、清潔なシーツと柔らかすぎるマット。何より驚いたのは隣りに寝ていたのがレオナルドだったことだ。ふだんまばたきをほとんどしないまぶたが今はぴったり閉じている。空気が止まったような静けさが部屋を覆っていた。枕元に空のコーラのボトルが放り出されたままだ。ベッドから降りようと起き上がったラファエロは、揺れるマットの上でぴくりとも反応をみせないレオナルドをみつめた。ためしに枕を揺すってみたが、ころんと頭が動いたくらいで目を覚まさない。思わず呼吸を確かめるが規則正しい寝息がかざした掌を撫でるだけだ。
 時間の裂け目で自分だけ目が覚めてしまった気がした。ラファエロははだけたシーツをそっと戻して、目覚めたときと同じようにベッドに横たわった。鼻先が触れるほど近くでみつめても、レオナルドは目を覚まさない。枕に落ちていたレオナルドの腕を自分の肩にのせる。これでいいはずだ。ラファエロはぎゅっと目を閉じた。
 それから気を失うようにして深い眠りに落ち、何事もなく次の日の朝を迎えた。だがベットの上にいるのはラファエロだけで、レオナルドはとっくに起き出して先生に朝の挨拶まで済ませていた。やあおはようと言いながら部屋に戻ってきたレオナルドをラファエロはいますぐ屋上へいこうと誘った。レオナルドはそれがどこの屋上かとは聞かず、ああいいぞ、と言って刀を背負った。薄暗い下水を歩く間、ラファエロはレオナルドの少し前を歩き、二人はおしゃべりひとつしなかった。朝早い桃色の靄がかかった路地には、いつもたむろしているのら猫の姿はなく、車の一台も走っていなかった。遠くで鳴く鳥の声だけが時間が前に向かっていることを教えてくれる。
 ラファエロは路地を抜けてれんが造りのアパート非常階段を登った。あのとき壊したひさしが真新しいプラスチックのひさしに作りかえられている。そっと屋上を覗くと朝焼けが給水塔の影を作って涼しい朝の風が吹き抜けていた。ラファエロが屋上のへりに腰掛けると、レオナルドもそれにならって隣りに座った。それからしばらく黙って二人は空を見ていたが、ラファエロの視線はいつの間にか空を見上げるレオナルドを見ているだけになった。その青い目に何か映ってやしないかと思ったのだ。けれどレオナルドと目が合いそうになってふいっと目を反らし俯いた。朝を迎えた街にちらほら人の姿が見える。ラファエロは隣でゆらゆら揺れるレオナルドのつま先に向かって聞いた。
「いまも見えるのか」
 揺れていた足がとまり、へりを掴んでいた指が空のどこかを指さす。
「ああ」
 ラファエロは朝焼けに目を細めるレオナルドをみつめた。
「どれくらい」
 彼は笑って、嘘くさく数える仕草をしながら教えてくれた。
「たくさん。かな」
 
 
 
 






 


 
 














 
 
猫は飛んでいく
 





お題:漢さん。<CHOPPED LIVER>
絵:わび介さん。<どんぶら粉かわら版>
文:コナ