ある日、すごいものがあるといってドナテロがおもちゃのル−ビックキュ−ブを見せてくれた。3×3の手のひらサイズの立方体で、上下左右にぐるぐると回転させることができた。ただ一つ普通のものと違うのは、全面が黒一色だというところだ。いったいどうやって遊ぶんだろうと首を傾げていると、ドナテロはいじわるそうに口の端をつりあげてキュ−ブを90度回転させた。すると黒一面だったキュ−ブの一つ一つに赤いデジタル文字が表示されて0から∞の数字がせわしなく点滅しはじめる。それからドナテロはあたりを見回して、よしあれにしようと古いソファを指さした。
彼は点滅するキュ−ブをひっくり返して全体を眺めたあと、うんと頷いてキュ−ブを横に二回、縦に一回まわした。ふっと空気が止まって、頭や腕の皮膚の上をぱりぱりと小さな雷が走った。次の瞬間、ソファがまぶしいばかりの光を放ち、ずん、と重たい音がして家がゆれた。ほらねと促されて、目をやるとそこにあった古いソファは消えており、代わりに黒い革張りの、高級そうな新品のソファが置かれていた。
駆け寄っていってさわるといままで感じたことのないくらいすべらかで上等な綿が詰まった最高のソファであることが分かった。すごい!すごいよドニ−!上に飛び乗って興奮気味に叫ぶとドナテロが、「むこうと取り替えたんだ」と言った。
「むこうって?」「ソ−ホ−の家具屋」
ソファのうえを飛び跳ねながらそのすばらしい跳ね心地を堪能していると、彼はもっとすごいこともできるよと言ってまたキュ−ブを動かし始めた。今度はどこからか風が吹いてきて、空を黄色い閃光が横切り、どかんとすさまじい音をたててキッチンテ−ブルに雷が落ちてきた。そこにはさっき読み終わったばかりの最新のコミックを置いていたはずだ。焦げ臭いにおいがたちこめ、まさかと思い青ざめながら駆け寄るとコミックは無傷でそこにあった。ほっとして手にとって見ると表紙のイラストが違う。いままで見たことのない絵だ。めくるとさっき読んだものと内容も違う。表紙に戻って日付を確認すると、月が来月になっている。振り返ると、ドナテロがにいと笑って、
「むこうと取り替えたんだ」「むこうって?」「未来」
そしてドナテロはいろんなものをむこうと取り替え始めた。テレビから扉から車から冷蔵庫の中身までぴかぴかの新品になった。たとえば最新式のシステムキッチン、3D仕様テレビとホ−ムシアタ−、ホログラムの噴水に空飛ぶ車だ。ドナテロのあとをついて歩きながら、すごいすごいと飛び跳ねたり転がったり抱きついたり。そしてすっかりなにもかもが入れ替わった家の中の最高のソファに二人でぎゅうぎゅうに寝そべって、お互いのほっぺたや口や閉じたまぶたの両方にくちづけした。「いま一番しあわせだな」「僕も」
そう言う彼の視線は取り替えるものを探して家中のあちこちを移動し、両手はそわそわとキュ−ブをいじっている。
彼の胸に顔をうずめてじっと考えていると「ねえ」と声がして、見上げたドナテロの灰色の目のなかに、天井の梁が写り込んでいるのがみえた。そこからはらはらと枯れ葉のようにまいおちてきた赤錆がソファに張り付き、突然ソファがびりりと裂けて綿が飛び出した。ドナテロは飛び起きた。それで花火みたいに部屋中を駆け回った。
最新のテレビや空飛ぶ車はすべてほこりをかぶってさび付いていた。コミックは黄色く焼けてそりあがって、冷蔵庫の中身はみんな干からびていた。あちこちに蜘蛛の巣が張ったかと思うと次の瞬間にはしおれてだらりと垂れ下がった。天井からは水が滴り、ぎぎぎぎぎと家中が激しくきしむ音。どうしたのと聞くと、彼は肩をいからせ、荒く呼吸し、さびついた扉に駆け寄っていって力任せにひっぱって、開かないとわかると金切り声をあげて怒った。煉瓦の壁が崩れて鉄板があらわになる。急に息苦しくなって全身の肌が泡立ち、その上をぱりぱりと静電気がはねまわる。手をついたソファはいつのまにか穴だらけになっていて、一分もしないうちにばきと音を立てて足がおれ、ごろんばんと転げ落ちた。
どこからか黒い雲のようなものが吹き出してきた。雲の中を黄色い閃光が行き交っている。ドナテロは扉を開けるのをあきらめて、キュ−ブをまわしはじめた。古くなったものを次々にむこうと取り替えていく。一回転するごとにソファやテレビや扉やコミックは新しくなったが、またあっと言う間に朽ち果てて鉄くずと化した。そのうち家中にあったなにもかもが一斉に歳をとりはじめる。天井に張り巡らされていたアルミの配管が瞬く間に老朽化し、ねじがはずれてぶらさがる。
ドナテロはキュ−ブをまわすのをやめた。
地面が大きく揺れる。床が割れ、足を滑らせて倒れた。そこへ腐った梁がまっすぐにおちてきて横腹を貫き地面に突き刺さった。ドナテロは両手にキュ−ブを持ったままただ呆然と立ちつくすだけだ。身動きがとれなくて、弱々しい声で助けを求めると、彼の灰色の目がぐるりとこちらに向きなおり、ちょっと怒ったように手の中のキューブを示して言った。
「おかしい。こんなはずない」
ぱちりとキュ−ブが動き出した。手のなかに収まった黒い四角の一つ一つがチカチカと数字を示して点滅する。
「だって完璧だろ」
おびただしく広がる血潮の絨毯を踏みつけて、ドナテロがキュ−ブをまわしはじめる。縦と横に二回と真ん中からはじいて一回。ぱちぱちぱちぱちとつらなったキュ−ブを回転させていき、ひとつの面が完成するたび、キューブは色鮮やかにかがやく。迷いなく動く彼の指はついに目で追えぬほどの早さになって、仕上げとばかりに親指が軽快にキュ−ブを跳ね上げる。「じゃあ終わりだ」と言って彼は、瓶の蓋を閉じるみたいにキュ−ブの上と下をつかんで、ひねった。
「ばたん」
キュ−ブを手にたたずむドナテロの上に、枯れ葉のような鉄さびがふりそそいでいた。彼は薄明かりを背負い、満足そうに笑っている。
枯れ葉はますます強く降り注ぎ、赤茶色の霧のようになって彼を包みこむ。マスクが切れてはらりと落ちる。差し出された手は筋と骨ばかりが目立ち、のぞく目は暗く落ちくぼんでまるでゾンビだ。
「むこうに行ったら、」
ドナテロは言う。
「むこうの僕によろしくたのむよ」
「マイキ−!また勝手に僕の部屋に入ったろ!」
ぼんと頭に衝撃を受けて我に返った。当たったボ−ルがとつとつと床を転がってとまる。
見上げると、二階の廊下から身を乗り出すようにして、ドナテロが立っていた。心底あわてたような様子で、階段を降りてくる。そしてずいと両手を前に差し出して、
「ほら、返して」
言われて手元をのぞき込んだ。堅いものを握りこんでいる。そっと開くとそこにあったのは、まだ色のない、まっさらなキュ−ブ。
「これなに」
「え?」
「教えてくれなきゃ返さない」
「話したところで、おまえに理解できるとは思えないけど」
「いいから」
彼は肩をすくめ、どこか得意げに話しはじめた。
「実はまだ使い道がわからないんだ。僕なりの時間の解釈を形にしてみただけ、なんの機能もないよ。ね、つまんないだろ。返して」
「つまんないのに返してほしいんだ」
「これでも手間ひまかけて作ったものなの、思考の地図みたいなもので、ああもう、とにかく返してよ」
「いやだ」
彼の表情がだんだんと堅く冷たいものになっていくのがわかった。
「怒るよ」
「いいよ」
言うなりばっときびすを返して走り出した。驚いて後を追ってくる気配がする。リビングのソファを飛び越えて家を飛び出し、下水道をかけた。がなるファンの下をくぐり抜け、底の見えない貯水槽に、思い切り勢いをつけてキュ−ブを放り込む。キュ−ブは音もなく暗闇の向こうへ消え、すぐに見えなくなった。
しばらくしてやっと追いついた彼が、額の汗をぬぐいながら懲りずに手を差し出すので、そんなものはもうないと空いた両手をふってみせた。
「ごめん、落とした」
舌を出して軽い口調で告げると、彼は荒い息のまま、あたりを見回して唸った。ちらりとこちらをにらみ、息を整える少しの間、彼はキュ−ブが消えたであろう暗闇の底に目を凝らす。上下していた肩が収まり、あたりに響く水音としばらくの沈黙のあと、彼はぽつりといった。
「もういい」
こめかみにあてた拳がぶるりと震える。
「あれは失敗だったんだ」
そうしてむきなおった彼は、少し疲れたようないつもの優しい顔で、
「帰ろうか」
と、もときた道をとぼとぼと歩き出した。その形のいい甲羅をぽんと叩いて飛び越え、「先にいくよ」と走り出す。彼が焦ったように後を追いかけてきて何度も名前を呼ばれたけれど、もう絶対に振り返らずに走った。追いつかれないようにずっと走り続けているとさすがに息が切れてきて、家までのスロープが長く、恐ろしいほどの急勾配に思えてきた。足も腕も鉛を仕込んだように重くなる。息をするたびぜえぜえいって、咽が渇いてしょうがない。目の前が、なんだか白いペンキを散らしたようで、ごしごし擦ると汗と涙が混じってぐにゃっとしたものが指についた。お腹になすりつけると、ほんのり暖かかった。息をする口から涎が糸を引くのを両手でぬぐいながら家に入った。テレビは丁度夕方のアニメ番組をやっていた。冷蔵庫を探して歩いて、中からアイスとジュースのパックをとって閉じたステンレスの扉に、やせ細ったゾンビが映ってる。恐くなってソファに飛んでいってまるくなると、頭のところにコミックが山になって置いてあるのをみつけた。めくっていくとどれも見たことのない新しいやつで、嬉しくなって、コミックを手にとって、かさかさの指をなめてページを開くと、一番好きなヒーローの決めぜりふのところから声に出してよみはじめた。
むこうによろしく −END−
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