空は青みがかった灰色をしていた。雨の乾かない道路は所々に水たまりができていて、風が吹くたびに波だって小さな川になり、排水溝に流れ込む。歩道に立ってその様を眺めていたラファエロの前を数台の自転車がスピードを上げて通り過ぎた。学校へ向かう一団だろうか、かなり飛ばしていたから、遅刻寸前なのかもしれない。クラクションが聞こえ、郊外行きの路線バスが自転車を避けながら坂を登ってくる。ラファエロは足元に置いていたドラムバッグを抱えて、バスを迎える。扉が開くと太った運転手が、学校行きは逆だよと言った。ラファエロは無視してバスに乗り込み一番後ろの席に座った。停車している間、運転手は顎に食い込む帽子止めを引っ掻きながら、鏡に映るラファエロをちらちらと盗み見ていたが、時間になると帽子を脱いで汗を拭い、また難儀そうに被り直してバス停を出発した。
 郊外へ向かうバスには、ラファエロを含めてもほんの数人しか乗っていなかった。その乗客も何駅かするといなくなってしまい、そう経たないうちにラファエロだけになった。途中乗ってくる人もおらず、バスは止まることなくまっすぐに郊外へ向かっていく。森を抜け、湖に出た。人気の無いボート乗り場が遠くに見えた。その向こうにはフェスティバルが終わって芝生に戻ったキャンプ場があった。バスは丘を登り、あと何駅かすれば郊外というところで急に速度を緩めて歩道に寄っていく。乗り込む客がいるらしい。ラファエロはため息をついて灰色の雲を映す湖面を眺めていた。バスが停車し、扉を開けた運転手が、学校行きは逆だよ、と言った。いいのいいの気にしないで行っちゃってよ、と軽い口調で答えて乗り込んで来たのは、ミケランジェロだった。
 ミケランジェロはラファエロ以外誰もいない座席をゆっくりと見てまわり、車内広告にぶつぶつ文句を言いながら奥までやってきて、ラファエロの隣にどかんと腰掛けた。そしてまるで、つい今し方気がつきましたというように態とらしく、
「あれえ!? こんなところで会うなんて運命的じゃない?」
 ラファエロは無視を決め込んだ。
「ってことはおまえもあれだ、ヴァーチャルヒーローズの握手会に行くんだ。そっか、そうだと思ったよ」
「……」
「知らないの? 今ちょー人気のコミックヒーローじゃん」
「……」
 ミケランジェロはくくくと笑った。そして汗のひとつもかいていないのに暑い暑いと言いながら手の届く窓を全てあけはなち、前の座席の背に足を投げ出してふんぞりかえった。風が吹き込んできて、着ていたパーカーのフードがばたばたと暴れる。ミケランジェロはラファエロの足元に置いてあるドラムバッグをちらと見て、風に消されないよう声を張り上げて言った。
「どこいくの」
「……」
 彼はさらに大きな声で続ける。
「いつ帰るの?」
「……」
「おーい」
「……」
「あ、ごめん聞いてなかった、もう一回言って」
「……どこでもいいだろほっとけよ」
「なんか妖精さんの声がする」
「……」
「冗談だって。なに怒ってんの、ほら、なんだよとびっきり短い人生じゃん。な。もったいないよ。機嫌直せよ。な。な。どうする?」
「……なにが」
「ヴァーチャルヒーローズの握手会」
「いかねーよ」
「じゃ、うちに来ない? ドニーがピザ作りにはまっちゃって困ってんだ、ほらうちって食べるやつがいないじゃん」
「しらねーよ」
「新しいの作るってば」
 ねえねえ、と肩をつついてくるミケランジェロに、ラファエロは言った。
「……あいつになんか言われたのか」
「あいつって?」
 にやと笑みを浮かべてミケランジェロが聞き返してきた。ラファエロが口をつぐむと、ミケランジェロがずずいと間をつめてくる。
「それさ、」
「……あんだよ」
「そのバッグ、何入ってんの」
「なんもねぇよ」
「なんにも?」
「そう言ってんだろ」
「みしてよ」
「勝手にしろ」
 ミケランジェロはドラムバッグを引き寄せて抱えると、ジッパーを開いて中身を大げさに探り始めた。中は着替えの服とか歯ブラシとかCDとか、空の写真立てとかそんなもので、ミケランジェロはいちいち感嘆詞をつけてそれらの感想を述べると、つまんないの、と総合的な評価を下し、バッグを窓の外へ投げ捨てた。
「なにすんだ!」
「まあいいじゃん」
「よくねぇよ! ふざけんな!」
 ラファエロは立ち上がってバスの天井を叩き、止まれと叫んだ。運転手は顔をしかめながらマイクをとり、バスが完全に停車するまでは云々、と言ったあとゆっくりと停車した。ラファエロはバスを飛び降りて元来た道を走った。けれど、どこまで行ってもバッグは見あたらない。草むらや、排水溝の中まで探したがみつからず、ラファエロは道の真ん中で途方にくれて立ちつくす。振り返るとバスはもう走り出していて、遠く丘を越えていくところだった。
 滴り落ちる汗もそのままに、ラファエロは頭を抱えて唸った。そこへ小気味良いエンジン音と共に黄色いBMWがやってきて、ラファエロのすぐ横で停車する。誰かを降ろすのかと思ったが、ただそこでエンジンをふかしているだけだ。車の窓は遮光ガラスになっていて誰が乗っているのか外からだと分からない。近づいて中に目をこらしていると、背後からどん、と甲羅を叩かれる。いつ降りてきたのかミケランジェロが立って、慣れたふうに後部座席の扉を空けてみせる。アニメのヒーローソングが大音量で流れだし、後部座席の灰色のシートの上にはラファエロのドラムバッグが置かれていた。ラファエロがバッグを取ろうとするとどんと強く甲羅を押され、結果ミケランジェロと二人して後部座席に乗り込むことになる。
 車はすぐさまUターンして走り出した。ラファエロは前の座席に鼻をぶつけてうめいた。それを見て笑っていたミケランジェロが、ふいに後ろを振り返って道の向こうに目をやる。
「危なかった」
 言われてラファエロも振り返る。長い長い坂道のてっぺんで、ゆらめく夏の熱気を背負うようにして男が一人で立っていた。表情は逆光で分からなかったが、その視線がこちらに向けられていることは嫌でもわかる。首のあたりが寒くなって、全身に鳥肌が立つ。
「ドニー、運転変わろうか」
「大丈夫だよ」
 運転席からドナテロの声がした。くじにでも当たったような明るい声だ。身を乗り出して運転席を覗きこむと、そこには半袖のシャツにゆるめのズボンをはいてサンダルをつっかけ、頭にトップガン顔負けのフルフェイスヘルメットを装着したドナテロが座っていた。頭をすっぽり覆う形のメットの前面は日光よけのシールドつきで、口からはホースが伸びて、その先は腰に巻いた小型ボンベに繋がっていた。息をするたびシューシューと空気の抜ける音がする。
「すごいじゃん、そいつの効果あり?」
「あたりまえだよこいつは僕の自信作だからね、シュー市販のやつを改良したんだ。どんな匂いの粒子もシュー逃さないし、もちろん細菌の類も完璧にシューットアウトしてるから持ち運びの出来る無菌室って感じかな。難点を言えば顎のベルトの調節が、ちょっと、なに」
「いいからいいから、ベルトがなんだって」
「シューそう、人のサイズだからベルトの調節がうまくできなくてさ、マジックテープだと劣化するし、紐だとずれるし、ナイロンだと擦り切れて、だから何が可笑しいんだよ。だいたい君の匂いが強いのは不衛生が一番の原因なんだからね、そこのところもっと自覚して、フ、シュー。おい! もう! なんなんだよ、おまえらいい加減にしろよ、僕だって怒るよ! 本気だぞ! シューるなよはずれるだろ触るなっていっ……っあああもう! ああそうかっそうかそうか分かったもういい! ふたりとも帰ったら全身丸洗いして煮沸消毒して真空パックに詰めてやるからな!」
 
 
 
 
 
 
 彼らの家は小高い丘のうえに以前とひとつも変わりなく、堂々とあたりを見わたすようにして建っていた。聞くところによると家を設計したのはドナテロらしく、ラファエロが宇宙基地っぽいと言うと、ドナテロは元々はそのつもりだったんだよとやや興奮気味に、着想から着手に至るまでの計画の全てを話してくれた。道中ずっと講釈を垂れているドナテロを横目で見ていたミケランジェロが、自分のこめかみに人差し指を押しあてて何発か撃った。
 家の前までやってくると、ラファエロの口から自然とため息が漏れた。まわりを囲う木々が真っ黒な角を立て、ざわざわ揺れる。ミケランジェロに甲羅を押され、つんのめるようにして中に入った。中は真っ暗で誰の姿もなかった。全ての窓に少しの光も通さないよう頑丈そうなシャッターが降りていた。
「ただいまー!」
 ミケランジェロが声をあげると、ぱちんっと指を弾く音がして、一斉にシャッターが開きはじめ、夜明けのような明かりが差し込んできた。光は部屋の隅々まで行き渡り、三人がいる玄関にもやってきて、見上げるミケランジェロの青い目と、鮮やかなオレンジのマスクの隅々までくっきりと浮かび上がらせた。ドナテロは玄関でふっと息を止めてヘルメットを外して壁にかけ、隣に下がっていたファンつきの口と鼻だけを覆うマスクと取り変える。
「あいつ、いまいないんだ」
 ミケランジェロが言った。
「ずっと帰ってきてない」
「……なんでだ」
 ミケランジェロはソファの背をぴょんと飛び越えて座り、テーブルにあったリモコンを手に取った。そしてテレビのチャンネルをまわしながら、
「さあ、わかんない。見よう≠ニしても先にそれを読まれちゃって追えないんだよね。ときどきふらっと帰ってきてさ、で、また知らないうちにでてっちゃう」
「レオはあいつを探してるんじゃないかな、このまえ僕のナビを持っていったから」
「あいつって……あいつ≠ゥ」
「そんなに目くじらたてることないのにさ。だってテリトリーには侵入してきてないんだから。あいつ≠ヘ約束を守ってる」
 ラファエロはドラムバッグをどたんと床に置いた。
「奴は人殺しだ」
 ドナテロが驚いたような顔をする。ラファエロは視線を逸らし、パーカーのポケットに手を突っ込んでリビングを横切り、キッチンに入った。自動照明が一斉について、モザイクタイルの床にきらめいた。染み一つ無い壁紙と、まっさらなシンク。流し台にボウルがいくつも積み重なっていて、こねそこなったピザ生地の残骸と、三角コーナーには卵の殻が山積みになっている。流し台と調理台はそれぞれ独立しており、前面びかびかのステンレス加工がされて小さなレストランであれば、十分こなせそうな広い調理スペースが儲けられている。気配を感じて振り返ると、ドナテロが紺色の両目をぱっちり開いて立っていた。ドナテロはラファエロの隣を音もなく通り過ぎて、キッチンの脇に幾つも並ぶ冷蔵庫の中で一番小ぶりな、といっても普通の家ならば通常サイズの冷凍室から、大判の冷凍ピザをとりだした。イタリアのメーカーで、この前ラファエロが来たときに食べたものと同じピザの写真が、包装紙に印刷されている。
「努力はしたんだ」
 ドナテロは「ばらしたのは黙っておいて」と言って冷凍ピザの包装紙をびりびりに破いて、適当な皿にのせ、特大のオーブンレンジに入れてスタートボタンを押した。
「こんなこと言ったら怒るかもしれないけど、あいつ≠ヘそうしなきゃ生きられないんだ。僕たちみたいのは稀だよ」
「わかってる」
 リビングのソファではミケランジェロが肘をついて話を聞いている。
「僕もマイキーも、レオだって、本来はそうなんだ」
 ラファエロは流し台のふちに手を置いて、感触を確かめるみたいに何度か滑らせた。
「あいつ≠ニは違う」
 ドナテロが黙ったまま何も言わないので、ラファエロは拳でシンクを軽く叩いた。
「わかんねえよごちゃごちゃしたことは」
「レオはどうなの」
 ミケランジェロがソファの背に覆い被さるような格好で言った。
「あ?」
「レオのことは? また違う?」
「違うってなんだ」
「違わないの?」
「しらねえよ」
「大事なことだよ。だってレオには永遠のことなんだからさ。おまえは違うじゃん」
 ラファエロはシンクを叩いていた手を止めた。チンとレンジが鳴って、ドナテロが中からピザを取りだして、湯気のたつ大判のピザをリビングに持っていく。ミケランジェロがソファの端に移動して、ラファエロを手招く。ラファエロがのろのろとした足取りでソファに歩いていって腰掛けると、テーブルにピザを置いたドナテロがラファエロにもっと詰めてくれと言って、ラファエロはドナテロとミケランジェロの間に挟まれるような格好になった。「ほら食べて」とミケランジェロが言って、空中でピザをとってわしわしと食べる真似をしてみせる。ドナテロがひょいと手を伸ばしてミケランジェロの膝にあったリモコンをとってローカルチャンネルに合わせる。ミケランジェロが、だめだめ、といってバラエティチャンネルに変える。ラファエロは押し黙ったまま、ぱちぱちと変わるテレビを前に一人でピザを食べた。
 食べ終わると、ミケランジェロのテレビゲームに付き合わされたが、ほとんどゲームをやったことのないラファエロでは相手はつとまらず、そう経たないうちにソファを追いだされた。ドナテロが代わりに入って、一気にヒートアップするソファを横目に、ラファエロはぶらぶらと家を歩いてまわりはじめた。1階にある畳敷きのスプリンターの部屋と、書斎、地下にはガレージがあるらしい。2階にあがり、広い角部屋にやってくる。部屋の窓から郊外に繋がる深い森と敷地を区切る古びた門柱が見えた。黒い鉄柵が敷地を守るようにぐるっと取り巻いている。
 角部屋は右と左でスペースが半分にされていて、真ん中を低い本棚でしきってあった。左側は机やクローゼットが綺麗に整頓されているのに、右側は床に洋服が山積みになり、クローゼットからプラモデルとスニーカーの空き箱がはみ出している。床も壁も原色のポスターが貼り巡らされていて目に痛い。
 振り返って廊下の反対側には、レオナルドの部屋がある。いま扉はぴたりと閉まっている。ラファエロは歩いていって、ドアノブに手をかけたが、鍵がかかっていて開かなかった。覗き窓から中を覗いても真っ暗闇だ。
 そこへ、どたどたどたっと階段を駆け上がってくる音がして、ミケランジェロが階段の踊り場から顔を覗かせた。
「ねえさっきのバスが事故ったって!」
 ラファエロはミケランジェロに続いて階段を駆け下りた。テレビは地元のニュースチャンネルに合わせられていて、赤い巻き髪のレポーターが、マイクを片手にその現場を指さして興奮気味にしゃべっている。カメラが動いて道路の脇で横転した黄色いバスを映した。車体は、ばんばんと音を立てながら燃えていた。黒い煙がもうもうとたちのぼってあたりを包んでいる。消防車が何台もとまってホースの水を浴びせるが、火は右へ左へ蠢きながらどんどん大きくなり森の方へと向かっていく。画面に映っているのはバスの後部座席だけで、運転席は見えなかった。レポーターはしきりにわめいてあたりにいる警察や消防隊員に、まだ誰か中にいるのかと聞いている。
「おかしいな、なんで見えなかったんだろ」
 ミケランジェロが言った。テレビを見るミケランジェロの瞳が小さく縮んで黒点のようになる。カメラが黒煙に巻かれた木々を映し出す。警察がやってきて群がっていた人々を後ろへと誘導しはじめると、レポーターがバリケードを張る警察官の一人にマイクを向ける。鼻の頭が煤で真っ黒けの中年の警官で、いかにも手櫛でまとめたような黒のざんばら髪をして、寝不足の赤い目を鋭くしてどなった。
『危険ですから、下がってください! 下がって!』
「……ヨシだ」
 ラファエロが呟くと、ミケランジェロの目が柔らかな金色に染まる。テレビでは火が燃え移って、手前にあった古い杉の木が倒れてくるシーンを荒い画像で映しだしていた。カメラマンとレポーターも、舞い上がる黒煙に追われてその場から遠ざかる。逃げていく人々の頭の間に、必死に統制をとろうとするヨシの顔がみえたかと思うと次の瞬間にはカメラがアスファルトの道路を映して激しく上下にぶれる。しばらくしてやっとカメラが持ち上げられ、木が燃えてその火の先が天に昇る様を映し出した。居ても立っても居られずに玄関へ向かおうとしたラファエロの腕をミケランジェロが掴んだ。掌がじっとりと湿っぽい。
「すぐおさまるって」
「なんでわかる」
「だってそうなんだもん」
 見上げるミケランジェロの目がらんらんと輝いていた。
「ちょっとだけ先が見えるんだ」
 得意そうにふふんと鼻を鳴らして顔をのぞき込んでくる。
「おまえのも見てやろうか」
 ミケランジェロにじっとみつめられ、その瞳に走る金色の筋の一本一本までよく見えるようになる。ラファエロはぐっと身構えた。瞬きもしないミケランジェロの金色の目がきらりと瞬き、ごくと唾を飲み込んだラファエロの目の前で突然すっと元の水色を取り戻す。不思議に思ったラファエロが口を開いたとたん、ミケランジェロの鼻からたらんと黒いものが滴り落ちた。ミケランジェロはきょとんとした顔でラファエロを見返して、なんともなしに自分の鼻の下を拭う。うお、と声をあげて、ミケランジェロは両手についた真っ黒いものをしげしげと眺めた。ドナテロも瞬きせずにそれに見入っている。
「大丈夫か」
 ラファエロが肩に触れようとするのを体をねじって避け、ミケランジェロはソファから飛ぶようにして離れた。そのままキッチンカウンターに身を隠し、カウンター越しにそっとそっと顔を覗かせて、
「おまえ何者?」
 
 
 
 
 
 
「(大丈夫だ、報道が大げさなんだよあそこは。ケガ人も出なかったし、もともと運転手がいなかったんだ。トイレにでも行ったんだろ、サイドブレーキのかけ忘れだ。騒ぎになったから逃げたのかもな。いま探してる)あんたは(え?)なんともないのか(いま話してるだろ。大丈夫だ)そうか(ラフ)なんだ(どこにいる)……近くだ(どこだって)町からはでてない(……部屋がきれいだったから、俺はてっきり)昨日帰ってこなかっただろ?(メモくらい残してくれ、サキともめて大変だったんだぞ)は、なんで(おまえを匿ってると思ったんだよ。ほらつきあってるだろ、あの子と)なっ、なんでそうなるんだよ!(ちがうのか)ちげえよんなわけねえだろうがっ……ったく、あのな、あそこんちはぜんぜん関係ないからな、もういいだろ(切るのか)そうだよ(どこにいる)近くだって言ってんだろ、遠くないところだ(ちゃんと話そう、いろいろと)わかってる(時期も相談しなきゃならないだろ、学校もあるし)なんだよ学校かよ(事情を話したらぎりぎりまでいてもいいといってくれたんだ、友達にも挨拶したいだろ)友達なんていない(そんなこというなよ。向こうにいっても、会おうと思えばいつだって会えるんだ。遊びにくればいいだろ、それぐらいは許してくれるさ、その間は俺のところに居ればいいんだし、向こうの友達を連れてきたっていいぞ、もちろんおまえだけでもいいんだからな、分かったか、ラフ? ラフ?)聞いてる(そういうことだから、な、どこにいるんだ)……(……わかったよ。もう聞かない)……平気か(どこにいるかわかれば俺の気は休まるさ。おまえにその気がないんだから落ち着かないのは仕方ないだろ。せいぜい気を揉んで過ごすよ)……(じゃあ、おやすみラフ)ああ……(今日は寒いな)」
 確かにその夜は酷く冷え込んでいて、森の木々の隙間を抜ける風が、分厚いガラス越しでも聞こえてくるような気がした。スプリンター家の外壁はほとんどがガラス張りになっており、蛍光灯の明かりは影も残らないほど明るく照るので、幾ら敷地が広くて町から離れていると分かっていても、ラファエロは世界中の感心をわざと集めているような落ち着かない気分になった。
 ラファエロは電話を借りて、少しでもいいから身を隠せそうな場所を探しまわり、結局、キッチンカウンターの内側に座り込む形で落ち着いていた。正面には傷一つ無い調理台の銀色の壁があり、受話器を耳から離してため息をつくラファエロをぐにゃと歪めたような姿で映していた。ラファエロは目が焼けそうなほど白いモザイクタイルの床に受話器を置き、シンクに映る自分の影を眺めた。リビングの方からどたどたと足音が聞こえ、ラファエロの頭の上でがつんとぶつかる音がしてシンクの表面が震える。見上げるとミケランジェロが、キッチンカウンターに身を乗り上げてラファエロを覗き込んでいた。
「終わった? ドライブいこうぜ」
「いまからか」
「南海岸にすんげえ波がくるんだってよ、誰も気づいてないから一番めにくる大波にのれちゃうんだ、いこうよ」
「海岸? 遠すぎだろ何キロあると思ってんだ」
「夜通し走ってけば朝にはつくよ、それで朝いちに滑ってそのまま帰ってくれば午後にはこっちにいられるじゃん、あしたは夕方からタイタンマックスがやるからみなきゃなんないし、それには絶対間に合わせなきゃ。あ、そっか、おまえは滑りたいだけ滑ってから帰ってくれば? レオの車貸すよ。道わかんなくてもドニーの頭に全部入ってるからあとついてくればいいだけだしさ、たぶん8時間かかんないかなあ。ドニー、どれくらいかかるっけ、8時間かかんないしょ、だよね、ほら」
「……オレはいい」
「なんで、楽しいよ」
「海は嫌いだ」
「じゃあ海にはいんなきゃいいじゃん」
「あのな、オレは……、とにかく行かねえんだよ、理由はいろいろだ。わかったか」
 ふーん、と声がして、マスクの端がラファエロの頬をかすっていった。シンクがまた、ぶる、と震えて足音が遠ざかる。カウンター越しだと声の高さしか聞き取れないが、二人がなにやら話しているのはわかった。ラファエロはシンクに映り込む光が小さくなったり大きくなったりするのを見ながら、
「いっていいぞ!」
 と怒鳴った。すると左右にぶれていた光が凪いで真っ直ぐになり、「じゃあね」と声が言って、階段を降りる音と同時にやかましかった気配がぶつっと途絶えた。突然静かになったので、ラファエロが立ち上がってカウンターからリビングを覗くと、地下のガレージの方から、ぶるるん、とエンジンがまわってぐると家をまわりながら玄関の前で止まり、バタンバタンと乗り降りする音がして、タイヤがじゃり道を踏む音と一緒に遠ざかっていった。
 ラファエロは、静かになったリビングをそっと足音を立てないようにして歩き、電話を壁についた本体機に戻すと、ソファに置いてあったドラムバッグを持って玄関に立った。そのまま長い間動かずに立っていたが、ふいに息をついて顔を上げ、明るいリビングを振り返る。持っていたバッグをどたんと床に置いて階段を昇りはじめる。2階の廊下へ着くと、真っ直ぐにレオナルドの部屋に向かった。部屋の扉は前と変わらず閉じたままだった。ノブを持って開かないことを確かめたラファエロは、一歩下がって扉を眺め、ドアノブの上に指も入らないような細い窪みがあることに気がつく。いまは横一文字になっているが、周りに円形の溝がついていて、何か細いものでひっかければまわせそうだった。ラファエロは着ていたパーカーのジッパーを降ろして前を開き、ジッパーについていた金具をもって窪みに押しあてた。金具の厚みと窪みの幅は丁度ぴったりとはいかず、斜めにして無理矢理にはめこんだ。力を込めるとじりじりと窪みが左肩をあげるが、あと少しというところで金具がずれて指を思い切りぶつけてしまう。ラファエロはガスコンロみたいな声を漏らして上を向いたり下を向いたりして痛みをやり過ごし、収まるとまた指に金具を持って、より強くしっかりと押しつけた。指先をぶるぶる震わせながら一息に回すと、かちんっと鍵の外れる音。ラファエロは、はやる気持ちを抑えて冷たくなった手でドアノブを掴み、ゆっくりと押し開いた。
 ふわっと白いほこりが舞い上がるのが見えた。開く扉が散らばったものを押しのける重たい音がした。差し込む明かりの中に、裏返しになってびりびりに破かれた本と、真っ二つに割れたCDのプラスチックケースが見えた。すうっと冷たい夜風が吹いてきて、目をやると正面の窓ガラスに雨が伝ったようなひびが入り、その下にぽっかり空いた穴から風が入りこんできているのだった。ラファエロはすぐに壁に手をやってスイッチを鳴らしたが、どんなに押しても明かりはつかない。
「ただいま」
 ミケランジェロに習って呟いてみたが、やはり明るくならない。部屋に足を踏み入れるとじゃりじゃりと固いものを踏む音がした。風が吹くたび散らばった本のページがぱらぱらとめくれ、本棚の折れた棚木がぶらんぶらんと揺れきしむ音がした。スピーカーが倒れて床にめりこんでおり、背中のコードが千切れて導線が四方に広がっている。月明かりに慣れてきたラファエロの目に入ってくるものは、壁にできた数え切れないほどの凹みや、折れ曲がったフロアランプや、上から何度も踏みつけられたような<狼と冷人族>の本だ。立ちつくすラファエロの足の間を、クッションから飛び出た羽毛が通り抜けてふわふわと廊下まで滑っていく。ラファエロはうつぶせになっている<狼と冷人族>の本をつまみあげてガラスくずを払い落とし、ぐちゃぐちゃに折れたページを指でつまんだ。そこには大きな見出しで、冷人族を葬るには≠ニ始まっていた。
古代からの魔物であるため、十字架やにんにくは効かないが、頭と胴体を切り離すか、夜明けの強い太陽の中に長時間さらせば彼らは元の死人に戻る。たいていの場合、体が本来の年月を取り戻して骨も残らず塵となる
 じっと読みふけるラファエロの背後で、ばたん! と大きな音がして、ラファエロは持っていた本を取り落とした。風で扉が閉まったのだ。ラファエロはいかっていた肩をおさめて本を拾い、壊れた棚に立てかけたると、散らばった本やCDの残骸をなるだけ踏まないようにしながら部屋を出た。扉はしっかりと閉めてまたジッパーの金具を使い鍵をかけ直した。そのまま下へ降りようと階段に足をかけたラファエロは、何か床を引きずるような物音がしているのに気がつく。
 ラファエロは階段を半分ほど下りてかがみ、そこから見える玄関を眺めた。別段変わった様子はなかった。テレビでは、音の消えたゲームのスタート画面がそのままになっているが、ミケランジェロやドナテロの姿はなく、声もしない。ラファエロは階段を降りきって、しきりのないリビングを見回す。そこへまた、引きずるような音が聞こえてきて、ぱっとキッチンの方を見た。
 ずる、ずる、ともたつく音が大きくなるにつれて、湿度の高い、胃に重たい匂いがしはじめる。その合間合間にわずかな溜め息が混ざるのを聞き取ったラファエロは、ぎゅっと眉間に皺を寄せ、ゆっくりとキッチンへ歩み寄った。カウンター越しに見えるキッチンテーブルには、鍋もフライパンもなく、洗い場に伏せられているのはラファエロがピザを食べた時に使った皿だけだ。
 広い調理台の向こう側に、青黒い甲羅の山頂が見えた。体をかがめて、足元にある何かを、より分けている。
「レオ」
 ラファエロが呼びかけるとぴたりと動きが止まった。俯いていた体がゆっくりと持ち上がって、切れ長の目が、カウンター越しに立つラファエロの姿を捉える。小さくなった黒目の周りが金色になっていた。上半身はなにも身につけておらず、露わになった胸の全体が真っ黒いもので染まっている。ぶらんと垂らした両腕も泥まみれになり、指先から赤いものが滴る。ラファエロがじっと見ているうちに、白いタイル張りの床をじわと赤黒い液体が広がっていく。立ったまま身動きしないレオナルドに、ラファエロは、
「なにしてるんだ」
 と声をかけた。レオナルドはそれには答えず、ラファエロから視線を外さないようにしてゆっくりとかがみ、両手に何か質量のあるものを持って調理台に放り投げた。蹄のついた毛むくじゃらの足がシンクに叩きつけられる。仰向いた鹿の首がぐだんとこちらを向いて垂れ下がった。ゴルフボールほどもある目玉が白目をむいている。
 レオナルドは台からはみ出すほど大きな鹿の全身を調理台にきっちり載せると、特に意識した様子もなくシンクの棚を開いて中から病院の点滴につかうようなビニールバッグを取りだした。そして鹿の首の折れたところを流し台のふちにもってきて、片手で首を押さえ、もう一方の手でビニールバッグをつまみ、歯で袋のジップを開いて鹿の首元までもっていく。押さえていた手を離すと、どろ、と濃い血液がバッグのなかに流れ落ちた。それがいっぱいになるとまた首を押さえて片手でジップの口を閉じ、新しいバッグを取りだしてジップを開き、中を血で満たす。ラファエロが見ている間にも、バッグはシンクのうえを転がるほど中身をぱんぱんにした状態で、調理台に積み上げられていった。
 少しの乱れもなく動くレオナルドが急に、
「バスに乗らなかったのか」
 と水っぽい声で話し掛けてきた。
「……途中で降ろされたんだよ」
 レオナルドはちょっと考えて、「なるほど」それからいやに静かな声で「それでか」
「しばらくはここをでるな」
「なんでだ」
「レオナルド≠ェいる」
「だからどうした、俺は俺のやりたいようにやるだけだ」
 レオナルドは何個目かのバッグを開いて、首から漏れる血をぎゅっと押し出して中に詰めた。
「どうせ出られない」
「あん?」
 血で満杯のバッグがテーブルに山になると、レオナルドはキッチンで一番大きな冷蔵庫の扉を開いた。中に突っ張り棒がされていて、シンクにあるのと同じようなビニールバッグが表に日付を書かれ、古い方から順に吊されてあった。レオナルドはそこにあるものの日付を確認し、シンクに積んだビニールバッグに、冷蔵庫の横につけていた黒のマーカーで今日の日付を書き入れて棒に吊しはじめた。
「バスもタクシーもないからな」
 口にマーカーのキャップを咥えて話すので、どこか舌っ足らずで物足りない感じになる。冷蔵庫の扉が閉まらないように膝を挟ませているレオナルドを見て、ラファエロがキッチンに入っていって積み上がったバッグを取って渡してやると、彼はキャップを口の端に転がして「ありがとう」と礼を言い、受け取った。ラファエロがそのまま冷蔵庫の扉を支えてやり、レオナルドは両手に持てるだけのビニールバッグを持って、棒にぽんぽんと吊していく。そうしながら、
「もうバイクもないよな。次の街までは山を越えていかなきゃならないから、お前の足じゃどこにもいけないよ」
「車貸せよ」
「俺に言ってるのか? そうだな、断る」
「……なら歩いていく」
 ばたん、とレオナルドが冷蔵庫を閉じた。
「できるならな」
 レオナルドが流し台についた蛇口を捻ると、束になった水がシンクに跳ね返る音が響き渡る。そのままじゃぶじゃぶと汚れた手や腕を洗いはじめる。鹿の首を邪魔そうに押しのけて、蛇口の下に頭を突っ込んで首から胸を洗い流す。濃い色に染まったマスクから、茶色い雫が滴ってシンクのなかで渦を巻く。
 ラファエロはゆっくりと後ずさって、キッチンから出た。レオナルドは流し台のふちに両手をついて項垂れたまま動く様子はない。ラファエロが煌々と明るいリビングの端に置いていたドラムバックを取って、ソファを過ぎて玄関へ向かう間も、レオナルドは気がついていないのか、頭の後ろに手をやってばしゃばしゃしぶきを飛ばしながら洗っている。ラファエロは黙ってバッグを肩にかけ、背の高い玄関に立った。すると後ろから静かな声が、
「おやすみ」
 とたんに家中の明かりが消えた。窓から差し込む月明かりがフローリングの床を斜めに撫でている。ラファエロは急な暗闇のせいで扉に鼻をぶつけて唸った。ヴヴンと電動音がし、家中のシャッターが一斉に降りはじめる。残っていた月明かりが消えると、かろうじて見えていたものの形も暗闇に沈んで、テレビ画面の明かりがソファの表面を白く光らせるだけになる。
 向こうからきゅっと蛇口を捻る音がした。鼻を押さえて唸るラファエロの肩を誰かが掴んだ。振り払おうとすると胸をどんと突かれて冷たい石のうえにしりもちをついた。何かものすごい力がラファエロを床に押さえ込んでいる。ぐるぐる唸って吠える頭を、がつんっと、固いものが殴った。いきなりの衝撃に目の前を熱い花火が飛び跳ねた。
 ぐったりと伸びたラファエロの足を冷たい手が掴む。砂袋みたいな感触の指が、ラファエロの左の足首を持って握りこむ。ぱちぱち跳ねる景色にラファエロがよくよく目をこらすと、ぼんやりとレオナルドの姿が見える。青いマスクから滴る水を拭いもせず、金色に輝く目をすうっと細くして、彼は言った。
「どこへもいけないさ」
 ぱきんっと足が鳴って、息が止まった。焼けるような痛みに体がのけぞって、自分でも聞いたことのないような声が出た。それでもレオナルドは表情ひとつ変えず、手の中のものを殊更強く握りしめる。どくどくと心臓の鳴る音がしてラファエロは床に頭をこすりつけた。やめてくれと言う声も出る前にうめきに変わる。
 レオナルドはがたがた震えるラファエロの足を優しく撫でてなだめるような仕草をした。足首を掴んでいた手がするりと離れていき、やっと解放されたと思ったラファエロの、もう一方の足を、また冷たい手がぎゅっと握り込む。恐怖にざあっと血の気が引いて、ラファエロは力任せにレオナルドの腕をはがそうとするが、びくともしない。みしみしみしと骨がきしむ音がしはじめ、ラファエロは目を閉じてぐっと奥歯を噛みしめる。
「レオナルド!」
 そのときぱっと部屋の明かりがついた。足を掴む手を杖の先がばしんと払いのけた。レオナルドは心底驚いた顔で後ずさり、杖の持ち主を見て、金色だった目をあっという間に暗い灰色に変える。
「なにをしている」
「…………」
 どんっと杖が床をついた。レオナルドがびくんっと体を跳ねさせる。スプリンターがいつもは穏やかな茶色い目を金色に変えていた。髭がぴんと立ち上がり、小さな肩をいからせ、とてつもなく怒気を孕んだ声色が、レオナルドを呼ぶ。それでも答えないレオナルドに、スプリンターは言った。
「掟のことを、おまえは一番理解しているはずだぞ、レオナルド」
 レオナルドはじっと足元をみつめていた。スプリンターが深いため息をつくと、彼は意を決したように顔をあげて言った。
「守るためです。目的は狩りじゃない、掟は破っていません」
 汗に曇るラファエロの目のなかに、レオナルドは背筋を真っ直ぐに伸ばして立っていた。
「あいつ≠ヘ、同族に手をかけるような殺し屋なんです。古めかしい掟なんかをあいつ≠ェ守ると思いますか。マイキーでも追いきれないのに、俺の足じゃ、もし何かあったとしても絶対に間に合わない。わかってて挑発してるんです。こっちは手の内を知られているし、それにラフを狙ってる。どうすればこっちが参るかわかっているんですよ。遊ばれてるんです。なぜ好きにさせるんですか!」
「向こうの思惑通りかもしれんな」
「……それは、どういう意味ですか」
「こうなる前に、この子と話し合うこともできはず」
「は……ラフは俺の言うことなんか聞きませんよ」
「ならおまえがやっているのは向こうと同じことだ。狩りじゃよ」
「違う! 違います! なんでそんな、先生はラフを知らないでしょう」
「おまえは知っているのか」
「だっ、っ……彼は、おれの……」
「なんだ」
「……」
「もう良い、行きなさい」
「先生」
「この子はわしが引き受ける。いいと言うまで近づくのはゆるさん。いいな。わかったら行きなさい」
 ラファエロは汗だくになってまばたきした。そのわずかな間に、レオナルドの姿は見えなくなった。ただ二階でガラスを踏む音を聞いた気がしたが。
 ラファエロは床に横倒しになったまま、冷たい床をひたひたと撫でるだけだった。
 
 
 
 















トワイライト〜亀