「どうすんだよ」
 ケイシーが言った。ラファエロは甲羅を壁にあずけながらあいまいに答えた。
「なあ、どうすんだよ、こんなことになって」
 体を揺さぶられて、痛みにその手を払いのける。
「どうしようもねぇだろ」
「なんで俺たちがこんなところに入れられなきゃなんないんだよ、なあっ」
「俺が知るか!」
 カンと、外にいた警備員が檻を叩いてこちらを睨み付ける。
 二人は町はずれにある警察の保護室にいれられていた。扉には鍵をかけられ、鉄格子で仕切られていて外観は牢屋そのものだ。中には薄い綿入りのシートが乗った二人がけのベンチがあり、その上に洗いざらしの毛布が畳んで置いてある。ベッド代わりということなのだろうか。見上げると頭も入らないような小さな窓があって、中からも外からも見えないようにくもりガラスがはめられている。隅に簡易トイレも設置されていたが、しきりひとつない場所で用を足す気になれるはずもない。
 何かの間違いだ、きっとすぐに解放される。2人とも最初はそう思っていた。けれど長い聴取が終わって深夜を過ぎ、朝方になって雌鳥が鳴いても、事態は一向に変わらなかった。
 ケイシーは、せまい部屋の中をもう2時間近く歩き回っていた。酔いも覚め、徐々に自分がとんでもない事態に陥っていることを理解し始めたらしい。
 ラファエロは冷たい鉄格子にほてる頬や痣になった腕を押しつけた。引っ張り回されたせいでシャツはよれよれになり、ジーンズは膝がすりきれて穴が空き、靴は片方しか履いていなかった。傷を負った手は未だじわじわと痛みを訴えている。消毒され簡単に処置をほどこされはしたが、あてたガーゼは血を吸って乾き、赤茶色になっている。
「・・・きっと誰かが死んだんだ」
 両手を擦り合わせながらケイシーが言った。
「・・・どうだろうな」
「お前、やったのか」
「んなわけねぇだろ」
「でももしそうだとしても、こういう場合、正当防衛っていうのになるんだ。エイプリルが言ってた。そうだよな?」
「さあな」
「さあなってなんだよ。もし誰か死んでて、おまえがやったってなったら、本物の刑務所に入るんだぞ、ここなんかよりもっと酷いんだぜ、きっと」
「うるせぇ黙れ」
「なんだよ心配して言ってやってるんだろ!」
「お前には関係ないだろうが!」
「は!?じゃあ何で俺はここにいんだ!たまたまか!」
「てめぇがパニくってぎゃあぎゃあわめくからだ!」
「おまえはなんとも思わなかったのかよ!目の前でエンジェルがなぐられてんだぞ・・・っ・・・っ!なんで守ってやらなかった!女はな!ちゃんと守ってやらなきゃだめなんだ!オレやおまえがっ!」
 ケイシーに胸ぐらを掴まれる。ふりほどこうとしているうちに本気の殴り合いになり、警備員が強く檻を叩くが、二人は狭い床をもみくしゃになりながら転げまわっていて気がつかない。しばらくすると騒ぎを聞きつけたのか外へ続く扉の向こうから、数人の話す声がして、早足で誰かがやってきた。そいつは鉄格子の隙間から太い腕を伸ばし、暴れ回る二人の首根っこを掴んで引き離す。
 ラファエロが噛み付かんばかりの勢いで振り向くと、そこには見上げるほど大きな異種族の男が立っていた。真新しいスーツにトレンチコートを羽織り、いかにも刑事風な出で立ちだが、スーツの上には肩と同じくらい幅のある、いかつい恐竜の顔がのっていた。四角い口からドリルみたいな歯が覗き、顔の両側にある小ぶりの目は薄い茶色に黄色のふち、額に小さな二本の角を生やし、眉間から後頭部にかけて王冠みたいなえらがはっている。ふたりは男を見上げ、ぽかんと口を開けたままぶら下がった。
 刑事はゆっくりと部屋を見回して、落ち着いた低いトーンの声で警備に鍵を開けるように言った。とたんに首を解放されて、二人は潰れたカエルみたいな声をあげて床に転がる。
警備員が鍵を開け、とっとと出ろとあごをしゃくってみせる。おそるおそる辺りを伺いながら外へ出るケイシーのあとに続いて、扉をくぐり抜けたラファエロの肩を、刑事の大きな手が掴む。そしてすぐ隣できょとんとしているケイシーに、刑事は言った。
「君はご家族が迎えに来ている。早く行きなさい」
「待てよこいつはどうなるんだ!」
「彼には話を聞く必要がある」
「なんでだ!ラフは・・・、そうだっ正当防衛だ!」
「なら話を聞かないと正確な判断はできないな」
「オレも残るからな!こいつは何も悪くないんだ!」
「ケイシー」
「おまえもなんか言え!」
「いいから帰れ。話がややこしくなる」
 ケイシーが食い入るようにみつめてきた。ラファエロは目を合わさずにまた、帰れ、と言った。警備員がケイシーの背中を押して外へ促す。彼は真っ赤になった目でラファエロを振り返り振り返り、背中をまるめるようにして出て行った。
 扉がしまると、恐竜頭の刑事はそばにある長いすを示した。ラファエロがのろのろと腰掛けると、刑事は部屋の端にあった速記用のテーブルを引きずってきて、スーツの胸ポケットから数枚の写真を取りだして上に並べはじめた。
「見覚えはあるか」
 一枚目は、老夫婦が満開のバラ園を背景に仲むつまじく映っているものだった。ラファエロが知らないというともう一枚上にのせてみせる。背中に大きなリュックを背負いピッケルを片手に微笑む少年だ。白い山の頂上に朝日が昇っている。ラファエロが首を振ると今度は様々な工具の写真を見せられた。ドライバー、包丁、斧、チェーンソー、鍬や爪切りまである。刑事の視線がじっと注がれているのを感じてラファエロはそれらの写真を前に、頭の中のありとあらゆる記憶を掘り起こして考えた。
 それでは、と刑事は今までの写真をしまって鞄から大きな封筒を取りだした。中からA4サイズの写真を何枚か取りだしてラファエロの前にもってくる。
 正面を向いた人の顔だ。おそらくは、死んだ人間の。ステンレスの台の上に無造作に乗せられた顔はどれも作り物のようだった。細かい傷だらけで、顎や頬が奇妙な形でえぐれている。さっき見せられた写真の人物だと、言われなければ絶対にわからない。
 様々な角度で撮った彼らの写真が何枚か続き、突然、町外れの湖の写真になった。中央に船着き場があって、一隻のボートが浮いている。ボートはくくりつけられることもなく、不自然な形でとまっていた。よく見ると船の舳先から白い、枝のようなものが覗いている。ラファエロがそれについて考える間もなく写真は取り替えられる。今度はうっそうと茂る森だ。高くそびえる西洋杉の群れ。ラファエロは濃い緑のそれにゆっくりと視線を走らせた。みつけたのは丁度右から二本目の杉だ。上の方に白い汚れみたいなものがある。つり下がった街灯のような、季節外れの雪のような。顔を近づけてじっと考え、突然それが人間の頭だと分かった。被さっているのは杉の葉ではなく、髪の毛だ。目が離せないでいるラファエロに刑事は言った。
「だいたい分かっているとは思うが、」
 ラファエロはぎゅっと膝を握り込んだ。
「昨夜、君をおそった連中のほかに何か見たか」
「・・・・・・見た」
 刑事は写真を机に置いて、先を促した。
「異種の男がいた。オレと同じ」
「それで。異種の男はなにをした」
「そいつは・・・」
 刑事は机を端によけ、顔を寄せてじっと聞き入った。ラファエロは一息に続けた。
「そいつは噛みついたんだ首に、それで血を吸った」
「・・・血を吸った」
 刑事は繰り返した。そしてラファエロの震える拳といやに真剣な表情を交互に眺め、ため息とともに机の上を片付けはじめる。ラファエロは身を乗り出して詳しく説明しようとしたが、刑事はそれ以上聞く耳をもたず、気のない返事をするだけだ。
 扉の向こうが急に騒がしくなった。複数人がわめくなかに知った声をみつけてラファエロは俯いていた顔をあげる。一際声を荒立てているのは間違いなくヨシだ。ヨシは、あんたじゃ話にならない!とどなって勢いよく扉を開け放つ。奥にいるラファエロをみつけ、ほっとすると同時にすごい剣幕で恐竜頭の刑事に詰め寄った。
「トラクシマス!」
「ヨシ、久しぶりだな」
「ここでなにしてる!」
「少し話を聞いていただけだ」
「未成年だぞ!保護者に通すのが決まりだろう!」
「こちらの管轄で起こったんだ、私の方法でやらせてもらう」
「だがここは違う!隣のルールでやられちゃこまる!」
「それは失礼、連絡がとれなかったようだが。また闇雲に探し回ってたんじゃないのか」
「・・・・・・その子を出してくれ。連れて帰る」
「わかった」
 刑事はラファエロを立たせ、その背を押しやった。途中ぼそりと、
「似てない親子だ」
 ヨシは扉に手をかけて、
「血はつながってないんだ、」
「なら余計にちゃんとしつけておくんだな。バカは放っておくと同じことを繰り返すぞ」
「・・・てめぇに何がわかんだよ」
「ラファエロ!」
 ヨシはゆらゆらと落ち着きのない目でラファエロを見下ろした。ラファエロはふいとそっぽを向いた。ヨシはそれ以上何も言わず、形だけの礼を済ませ、受付の書類にサインを書き殴るとラファエロを連れて外へ出た。
 明け方の濃い霧が立ちこめていた。ヨシが車の後部座席の扉を開けて、中に入るように言った。ラファエロは大人しく従い、車は一旦近くの救急病院に向かった。一通り検査と治療を済ませ、やりすぎなくらい包帯を巻かれた左手を抱え、裸足の足に病院で借りたサンダルを突っかけてラファエロは家に帰った。
 居間に入るとヨシが何か食べるかと聞いてきた。その顔は疲れ果て、急に何歳も年老いてしまったように見えた。ラファエロはいらないと答え、2人はそのままソファに並んで座って朝のニュース番組を見た。フェスティバルの事故は設備の不備で起こった可能性が高く、それが改善されない限り今後の開催は難しいだろうとアナウンサーが言った。ニュースは天気予報に切り替わる。今日は風が強く、湿度が高いので洗濯には向かないだろう、それから今後しばらくは雨が続くとのことだった。
 
 
 
 
 
 ぴんぽーん。
 チャイムがなって、ラファエロは目を覚ました。テレビがついていて、丁度夕方のワイドショーがやっているところだった。体を起こすと、いつの間にかかけられていた毛布がずり落ちる。どうやらあのまま寝入ってしまったらしい。頭を巡らせると、キッチン横の丸テーブルにつっぷしていびきをかいているヨシをみつけた。足元にスーパーの袋が落ちていて、テーブルにはビールの空き缶が数本と一ガロンの牛乳パック、シングルロールのトイレットペーパー、それから新しいシリアルの箱。
 ヨシを起こそうと歩み寄ったラファエロは、ヨシの頭の下で折り重なっている用紙の束に気がついた。横に立って覗くとどの紙にもびっしりと細かな文字が書きつづられている。めくっていくと見出しは<譲渡証明書><出生証明書><健康診断書>、その他諸々の調査書と戸籍の写し、それから何ページにもわたる請願書などだった。さらに手を伸ばして封筒を引っ張り出した。送り主は母親だ。中に入っているのはたった一枚の薄紙で、他と同じような証明書類だったが、何も書かれておらず真っ白の状態だった。
 ぴんぽん。またチャイムが鳴り、ラファエロは封筒を元に戻して玄関に向かった。途中壁掛け時計を見ると午後の5時を差していた。ぴんぽん。しつこくチャイムが鳴る。続いてかん高い女の声が聞こえた。
「福祉センターの者です!こんばんは!」
 ラファエロは扉にかけた手を止めた。覗き窓から外を見ると、どこかで見たような金髪の女が立っていた。紺のスーツに薄いブルーのシャツ、胸元には小さな十字のネックレス。ヨシと同じくらいの年だろうか、神経質そうな細い眉をつりあげて、
「もしもし!」
 どうすべきか迷っていると、後ろから手が伸びてきて、その手が鍵を外して扉を開けた。ヨシだ。慌ててきたのか、制服のジャケットを半分しか着られていない。ヨシは髪を撫でつけながらうわずった声で挨拶する。
「すみません、いまさっき帰ってきたもので」
「いいえ、構いませんわ」
 女は薄い笑みを貼り付けて言った。女の目が、ぽかんとしているラファエロに向くと顔から一瞬笑みが消え、またすぐに元に戻る。
「こんばんは」
「・・・どうも」
「こら、ちゃんと挨拶を、」
「いいんですよ。驚かせちゃったかしら」
「・・・いや別に、」
「福祉センターから来ました。よろしくね」
「・・・はあ」
 いやに間延びした話し方だった。
「ヨシさんから様子は聞いていたんだけれど、なかなか予定が合わなくて、」
 女はジャケットの袖に腕を通そうと必死になっているヨシをちらりと見て、「いつもお忙しそうだものね」と苦笑する。「そうでもない」ラファエロはヨシがジャケットを着るのを手伝いながら答えた。女はそれには答えずにヨシに向き直る。
「お母様のこと、聞きました」
「あ、ああ、そうですね先日も手紙がきまして・・・」
「まだ正式な話ではありませんし、心配ないとは思いますが、」
「・・・それが、その、最近いろいろとあって・・・」
「母親がどうしたんだよ」
 ラファエロが聞くと、ヨシはジャケットの前を合わせて口ごもった。女の奇異に満ちた視線が全身に突き刺さる。
「それじゃ、いいですかヨシさん」
「あ、すみません、どうぞあがってください」
 ヨシは大きく扉をあけて女を通すと、ラファエロに着替えてくるよう耳打ちした。ラファエロは言われてはじめて自分が昨日の酷い有様のままであることに気がつく。
 リビングに向かう2人の背中を見ながら、ラファエロは階段を駆け上がって2階へ。扉を開けると窓があいたまま、夕闇の中にカーテンがはためいていた。でかける前に閉めたはずなのにと思いながら伸ばした手を、突然何者かが掴んだ。そのまま部屋の暗がりに引っ張り込まれ、壁に背中をしたたかに打ち付ける。うめくラファエロにそいつは驚いて手を離し、
「すまないっ」
 レオナルドだった。青いマスクが風に吹かれ、ぽつと浮かぶ濃茶の瞳がまばたきしながらラファエロを見下ろしている。
 久々の再会だというのにラファエロは今にもどなりちらしそうになった。レオナルドは渋い顔をするラファエロと目が合うと罰が悪そうに笑った。風の匂いがする。全力で走ってきたような、雨と霧と緑の匂いだ。
「・・・おまえ、なにやってたんだよ」
 ラファエロが呟くと、レオナルドは思い出したようにぽんと手を叩いて早口で話しはじめた。
「ずっとやつのことを調べていたんだ。”レオナルド”だよ」
 ラファエロは体を強張らせたが、彼は気がつかずに続ける。
「とんでもない男だった、気にくわなければ同族にすら手をかけるような奴なんだ。あちこちで恨みを買って、追われてここに逃げてきた」
「それで、どうする」
 レオナルドは目を鋭くして、
「決まってる。同族殺しは極刑だ」
「・・・殺すのか」
「犠牲が出てからじゃ遅いだろ。普通の人間じゃあいつは捕まえられないし、それに・・・、ラフ、の、ためでもある・・・から・・・、」
 快活としていたレオナルドの声が、急に柔らかく響きだした。冷たい手が伸びてきて、親指が頬を撫でる。ぞっとして身をひくと、彼はずいと間を詰めて潤んだ瞳で見上げてくる。
「・・・、なんだよ」
 レオナルドは何も言わず、ラファエロの服の端を摘んで匂いを嗅いだ。赤い舌が布地を舐め、とたんに恍惚とする目を細めて胸のあたりに鼻先を押しつけると、うっとりとため息をついた。
「・・・誰にも傷つけさせない、守りたいんだ俺は、俺の・・・、もう君なしでなんて、考えられない」
 囁く声が肌のうえを這ってきて耳から頭の中に染み渡り、景色がぼんやりとしてくる。
「君もそうだろ、わかるんだ、ずっと考えてる、どうしたら俺といられるか、って・・・」
 まるで夢をみているように話すレオナルドの手が首を撫で、ゆっくりと肩から腕を下ってラファエロの手をとろうとする。慌てて引っ込めたが、彼はすぐに包帯に気がついた。レオナルドは横に逃れようとするラファエロの肩を掴んで上から下まで眺め、眉間に深い皺を寄せて、長い長い息を吐く。首筋が針で刺されたように痛くなった。青いマスク越しの両目が赤の混じった金色に変わるのが分かった。
「誰にやられた」
「・・・フェスでぶっとんだ連中に絡まれただけだ、たいしたことねぇよ」
 レオナルドの腕から逃れようとするが、がっしりと掴まれていてできない。
「どの連中だ」
「知ってどうする」
「二度とこんな真似できないようにしてやる」
 掴む手がますます強くなる。
「覚えてない」
「そんなはずないだろ」
「じゃ、忘れた」
「っもっと酷いことになっていたかもしれないんだぞ!少し運命が違えばこんなのじゃ済まなかった!どうして分からないんだ!」
 乱暴に揺さぶられる。
「・・・運命ね、」
 鼻で笑うと、レオナルドはむっと顔をしかめて言った。
「なにを考えてる?」
「なにも」
「言ったよな、知りたいんだ」
「なんもねぇよ」
「うそだ」
「・・・なんもねぇっつってんだろ、勝手に盛り上がってんじゃねぇよ」
「じゃあ俺を見ろ」
「は、誰が、」
「見ろ!」
 がつ、と壁に打ち付けられた。足が宙に浮いて壁をずり上がる。顔を背けると顎を掴まれ、たたき落とそうとした手をとられ、膝を割り込ませて押し返そうとするがびくともせず、ぐっと目を閉じると手首を捻りあげられて、耳元で低い声が、「見ろ」
「命令すんな!」
 ラファエロは叫んだ。めちゃくちゃに藻掻いたせいで傷が開き、血の臭いが漂った。
「はなせ!」
「ラフっ、」
「はなせ!!!」
 びりびりと空気が震えるほどの大音量にレオナルドの手が離れた。ラファエロはその肩を力任せに押し返し、
「オレを守るって!?誰にやられたと思ってんだ!おまえが前にのした連中だぞ!」
 レオナルドが血色の目を見開く。
「・・・そ、」
「そうだよ!おまえがあんなことしなきゃ・・・っ全部おまえのせいでこんなことになったんだろうが!」
 部屋はしんと静まりかえった。ラファエロが肩で呼吸する音だけが長いこと続いた。
そのうちにレオナルドの目の色が暗く深く、輝きを失っていくのがみえた。彼は自分のいる場所を確認するようにぐるりと部屋を見わたしながら、ゆっくりと一歩、また一歩と後ずさって夕暮れの淡い光の下に佇む。いつもきちんと上までとまっているシャツは前が大きくはだけ、裾が冷たい風に揺れている。そこから覗く肌の色はラファエロよりも明るい若葉色で、首から肩、胸のあたりまでしなやかで柔らかい筋肉が覆い、太陽の残り火が彼を照らすと、その肌は美しく七色に輝いた。
 ラファエロはまばたきもせずにレオナルドに見入っていた。しばらくして立ちつくすだけだった彼が口をひらきかけたとき、扉が勢いよく開いて、ヨシが飛び込んできた。
「どうした!いまっ・・・、」
「なんでもない」
「いやでも、声が、」
「なんでもない!」
 ヨシが面食らって体を仰け反らせた。ラファエロは小さな声で謝った。
 ふとみるとレオナルドが消えている。部屋を見わたすがもうどこにも、気配のひとつも感じられない。外を見ても車ひとつなく、平らな芝生が広がっているだけだった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「・・・なにかあったのか」
「なにもない」
「じゃあなんでそうなる、やめるだなんて聞いてないぞ」
 サキ親子の経営する自動車工場はその日、大口の注文が入っていて、修理工たちは朝から忙しく働いていた。近くで開発工事が行われるとかで、積載用の大きなトラックが何台も運び込まれてきたのだ。ラファエロはカライと共に騒音の激しいガレージを抜けだし、少ない休憩をとっているところだった。カライは後ろで縛っていた髪をほどいて乱雑にかきあげながら煙草をふかしている。ラファエロがバケツを持ってくると、彼女はそれをひったくって灰皿代わりにしはじめた。ラファエロは作業着のジッパーを引き上げながら、
「補習を受けることにしたんだ」
「いつまでだ」
「この夏中は」
「午後からでも来られないのか」
「・・・無理だ」
 カライは短くなった煙草をバケツに投げ入れ、また新しいのを出して火をつけた。
「そういうのは困る。どんな形でも最後までやってくれないと」
「悪い」
「義理でやとったわけじゃないんだからな。みんなお前に期待してた」
「・・・悪い」
「・・・分かった。もうあがっていい。給料は月末だからとりにきてくれ」
 カライはほとんど吸わずに灰になった煙草を地面に押しつけると、バケツをひっつかみ、ガレージへ入っていってしまった。ラファエロは手の中で転がしていただけの煙草を口にくわえ、火もつけずにがりがりと噛んだ。置いていたホースを引っ張り出して、蛇口を開くと、できあがったばかりの車を洗い始める。しばらくするとフィルターを噛み切ったらしく、口の中に葉が広がり、いがらっぽさに唾ごと吐き出した。
 頭のなかで女の声がした。『審査に通りたいなら、模範的な行動を心がけること』
 ラファエロは足元に散らばった煙草の吸い殻を排水溝に押し流した。
 洗い終わった車を指紋の一つも残らないようにぴかぴかに磨いた。ついでに運搬用の古いトラックもいままでにないくらい丹念に磨き上げた。それから納車予定のものに新品のカバーを掛け、ドアミラーに伝票をぶら下げてサインを確認し、今出来うる限りの全てが終わると、ラファエロはロッカールームに行って自分の荷物をまとめ、工場をあとにした。
 
 
 
 補習は、その日の午後から入ることになっていた。
 夏休み中の学校の駐車場はがらんとしていて人気はなく、数台の車と自転車が置いてあるくらいだ。体育室は静まりかえり、グラウンドで練習用の防護服をつけて走り回るラグビー部員もいなかった。いつもと違う様子の学校を眺めていると、始業のベルが鳴り響き、ラファエロはバイクを停め、足早で教室へ向かった。扉を開けると授業はすでに始まっていて、席についた数人の生徒達が一斉にラファエロの方を振り向いた。中にはケイシーの姿もあった。ケイシーはラファエロと目が合うと罰が悪そうに前に向き直った。教師が指示棒を伸ばして、早く席につくよう促す。甲高い声があの女にそっくりだ。
 ラファエロはケイシーから一番遠く離れた席に座った。そして教科書を開いて、書いてある文字を頭の中で読み上げてひたすら反芻した。ただそれだけを繰り返した。教室に行って、座って、黙って、読む。帰って家に一人でいるときはガレージでバイクをいじり、ヨシがいるときはキャビネットを少しずつ直していった。することがなくなると頭の中がもやもやと嫌な感じになって、そうなったときは外に出てひたすらバイクを走らせた。それでもだめなときは、近くの公園を走ったり自己流で武術の特訓まがいのことをしていればたいていは気が晴れた。
 福祉センターはこまめに連絡をくれた。けれど毎回あまり良い報告ではなかった。隠していた煙草を全て処分した。部屋の窓を開けていることもなくなった。家と同じ白で塗られたキャビネットが完成するころ、いつの間にか夏休みは終わっており、補習の結果はすこぶる良く、ラファエロはなんの問題もなく新学期を迎えることになった。
 
 
 
 学校は、休みを満喫した生徒達の土産話や、嘘か本当か分からないちょっとしたロマンスで溢れかえっていた。日に焼けて、楽しそうに笑う彼らの間を縫うようにしていつもの場所にバイクを置こうとしたが、見たことのない新しいスポーツカーが停まっていて、ラファエロは仕方なく空いた隙間に無理矢理バイクを置いて、教室に向かった。
 廊下を歩いていると向こうからレオナルドがやってくるのが見えた。彼の周りにはたくさんの生徒が群がっていて、通りざまに後ろをついてきていたミケランジェロに声をかけられたが、ラファエロはそれに答えることなく黙って通り過ぎた。ミケランジェロが少し困ったような顔でこちらを見ているのが分かった。生徒達のひそひそ話の中に、自分の名前が混じって聞こえてくる。
 ある程度予想はしていたことだと、ラファエロは前とかわりなく過ごした。体育の授業では日々繰り返していた特訓のおかげか、ずっといい調子で成績を残すことができて、バスケやラグビー部員たちから自分たちのクラブに入らないかと勧誘を受けた。学校はシーズンごとに違うクラブに入ることができて、やれば課外活動にプラス点がつく。毎日ぼんやりとヒマを持て余すよりはるかにいいだろうと、ラファエロは学生課から入部届けをもらってきた。
 昼休み、いつものように食堂で食事を済ませたあと、そのまま入部届けを前にしてどちらのクラブにしようか迷っていると、背の高い二人組がやってきてラファエロがいるテーブルに座った。どちらも気の良さそうな青年で、日に焼けて赤くなった鼻をかきながら白い歯をみせ、にかっと笑う。中の一人、白人で少し前歯の大きい細面の青年が、自分たちはバスケ部の代表で来たんだと言った。
「代表?」
「まずは聞いてくれ。今シーズン、うちは隣のグローブスとあたるんだ。ずっと負け続けてて、まあ、これは先輩が新しいコーチを引き入れたせいなんだけど、こいつがまたルールも知らないデブのボブ・マーリーみたいなやつでさ!前なんか26対、なんだ、78?・・・まったく。新入部員が入らなかったせいでいま交代要員もいなくて、本気でピンチなんだ」
「別にオレはいいけどよ、その使えねぇコーチとたいして変わらないと思うぜ?」
「それは全然いいって、でもちょっと頼みたいことがあってさ」
「なんだよ」
 二人は顔を見合わせて、中のもう一人、赤毛でグリーンの目をした青年が身を乗り出してきて言った。
「スプリンターの誰かを、一緒に引き入れられたらと思ってるんだ」
「ミケランジェロだ」
「おい、レオナルドだろ、みんなで決めたじゃないか」
「いいだろ、ダメもとで頼んでみようぜ」
 ラファエロが目を細くすると、二人は焦ったように声を揃え、
「ドナテロでもいい」
 ラファエロは口の端で笑った。
「自分で頼めよ」
「頼んだよ、でも話も聞いてくれないんだ。君は違うだろ、その、何か親戚とか、」
「なんの繋がりもないし、知り合いでもなんでもない」
「じゃあ、なんで、」
「しるかよ」
「でも、」
「っおい、」
 一人が言おうとしたことを、もう一人が遮る。険しい顔のラファエロに二人は苦い笑みを浮かべ、ちらちらとお互いを見合って先を促す。やがて意を決したように二人がまた何か言おうとするのをラファエロはテーブルを叩いて遮った。
「しるかよ向こうから勝手にきたんだ。オレは頼んでねぇし、元々その気もなんにもねぇよ。だいたいてめぇらのチームが弱いのはてめぇらのせいだろうが。コーチが使えないだ?最初から他人の手借りてやることしか考えねぇお前らのところに一人や二人あいつらが入ったところで何もかわりゃしねぇよ!」
 騒がしかった食堂が一瞬静まり、囁く声があちこちから聞こえてきた。奥の方から強い視線を感じ、なんとなくレオナルドだと分かったがそれを認めるのも嫌だった。前にいた二人組は口を真横に引き結び、綺麗に揃った眉を痙攣させていた。怒りの籠もった目でラファエロをちらりとみて、でも何も言わずにお互いの肩を叩いて立ち上がる。去り際にわざと音を立てて椅子を戻して食堂を出て行く。ラファエロはしばらくの間、周りの囁く声と視線に顔をあげることもできず、震える拳を睨みつけていた。
 次の日もその次の日もラファエロは一人頑なに態度を変えず、ケイシーやレオナルドがいても気にしないふりで食堂に行き、何を言われても押し黙って毎日を過ごしたが、逆にまわりの声は大きくなっていくばかりだった。特にバスケ部の連中はあからさまな敵意をむきだしにしていて、通りかかるラファエロの足元に唾をはいたり、うしろから声をかけて振り返る姿を笑ったりした。ラファエロは睨みをきかせ、牽制し、そいつらを来る端から追い払っていたが、それが幾日も続くともう面倒になってしまって、駐車場の植木に腰掛けて昼食をとるようになっていた。
 気がつくと、植木の囲いは全部新しい煉瓦に変わっていた。部分的な修繕ではなく、総取り替えにしたらしい。ラファエロがバイクに甲羅をあずけてぼんやりとそのことを考えていると、横から声をかけられた。顔をあげると、エイプリルが黒縁の眼鏡をかけ、修道女みたいな格好をして立っていた。ラファエロが黙って横にずれると、エイプリルは長いスカートを持ち上げて隣りに腰掛けた。
「調子はどう?」
「いつも通りだ」
「そう・・・」
 ラファエロは特に表情のないエイプリルの横顔を盗み見て、
「・・・エンジェルはどうしてる」
「元気よ」
「・・・そうか」
「ケイシーのことだけど」
 ラファエロは立ち上がって、ズボンの砂を払った。
「あいつと話した?」
「いや、」
「どうしていいか分からないのよ、きっと」
「・・・そうだな」
 ラファエロは未だ表情の硬いエイプリルの前にかがみこんだ。
「エイプリル」
「なに」
 彼女の視線が緊張に宙を彷徨う。ラファエロはぐっと奥歯を噛みしめて、
「悪かった」
「・・・なんで謝るの」
「いや・・・、」
 ラファエロが言いよどむと、エイプリルは少し怒ったように頬杖をついた手を右から左に変えて、
「あなたが悪いわけじゃないじゃない、あの子だってそうでしょ、謝ることなんて何もないじゃない、なんで謝るのよ」
 息せき切ったように話すエイプリルの目に涙が溢れ、頬杖をつく腕を伝って落ちた。ラファエロは黙ったまま頷くしかできなかった。しばらくするとエイプリルは涙をさっさと拭って、ふうと息をつく。
「また四人で遊びにいきましょ。買い物でもどう?新しいショッピングモールができるんですって」
「・・・女の買い物は長いからごめんだ」
 ラファエロがぼそりと呟くと、そうでもないわよ、とエイプリルがウインクしてみせる。返事に困って、ごまかすように咳をした。そのままラファエロがひたすらバイクのシートを撫でていると、ふっと影が落ちてあたりが暗くなった。顔をあげるといつのまにか5、6人ほどの集団がまわりを囲むようにして立っている。みると全員異種族で、異種といっても一部は人間で八割方鼠だとか、腕だけ蛇だとか、どこか中途半端な混ざり方をしている連中だ。エイプリルが不安げにラファエロを見ている。彼らはもやのように静かに間をつめてきて、一人、きつねの顔をした少年がラファエロに話しかけてきた。
「ラファエロだよね、次の授業は一緒だろ、ほら、歴史の」
「ああ」
「僕は同じクラスなんだ、知ってた?」
「いや」
「じゃあこの子は?食堂でみなかった?近くにいたはずだけど。それからこいつは生物の授業で後ろに座ってるだろ」
「ああ、どうも」
「話せて嬉しいよ」
「ああ」
「お昼はどうしてた」
「適当に」
「それはいいね」
 彼らは一斉に、よくあるざわめきのように笑った。きつね顔の少年が爪の長い手をすっと差し出してきて、
「どうかな、予定が同じなら僕らといこうよ」
「どうする、エイプリル」
「私、次は数学だから」
「だってよ、悪いな」
 ラファエロがひらひらと手を振ると、彼らは悪い冗談だと言うように、
「僕たち、ラファエロに聞いているんだけど」
「なんでだよ」
「同じもの同士助け合わないとね」
「同じだ?」
「ほら、僕たちみたいのは珍しいだろ。最初はみんな興味があるけど、慣れてしまえばそれまでだ。呆気ないもんだよ、分かってる、僕らもそうだったんだ」
「・・・へえ」
「特にあいつらは・・・本当に酷いよ。レオナルドなんか最低だね、だって君につきまとってたのに今はもう興味なしだろ?勝手だよ。僕もね、同じようなことがあったんだ。けど、そういうのは気にしないのが一番だからさ。こっちから無視してやったよ。あいつ、自分は受け入れられて当然みたいな顔してるだろ、まわりが構うからつけあがるんだよ、馬鹿な連中はそんなこともわからないでついてまわってさ、笑っちゃうよね」
「まあ、たしかにな」
 ラファエロが同意すると少年はますます声高になって、
「あいつは結局、自分以外に興味がないのさ、いつも同じ、誰とでもなんにでもね。あいつには心ってものがない。まるで死人だよ!」
 彼らは口を抑えてにやにやと笑った。ラファエロは、ばんっ、とシートを叩いて、
「うまいこと言うじゃねぇか!本人に言ってやれよそこにいるぜ、よおレオ!」
 彼らは驚いて後ろを振り返った。けれどそこにレオナルドの姿はない。状況が理解できずうろたえる彼らを指さして、ラファエロは笑った。エイプリルが戸惑ったように視線を泳がせる。彼らは自分たちが騙されたことに気がついて、面白いくらい一斉に青ざめた。そしてラファエロをぎろりと睨み付けると、来たときときよりもいっそう小さく固まりながら行ってしまった。エイプリルがラファエロの腕をそっと引っ張った。二人は苦い顔でお互いをみあった。
 そのときだった。
 ばん、と突然大きな物音がして、寄りかかっていたバイクが倒れた。みると地面に拳くらいの石が転がっていて、それがバイクの泥よけを割ったのだ。どうしたの、と覗き込むエイプリルのすぐ横でまた、ばん、ぱりん、と音がして、彼女は尻餅をついた。ヘッドランプが割れてケーブルが飛び出した。顔をあげたエイプリルのこめかみのあたりに小さな切り傷が見えた。誰だ!とラファエロは叫んだ。昼休みで駐車場も校舎も生徒で溢れかえっていた。騒がしさにラファエロの声はかき消され、誰も振り返らない。校舎の窓の向こうにケイシーの後ろ姿がみえた。ベルが鳴って、食堂からわっと出てきた人の群れにレオナルドの姿もあった。ラファエロは走っていって群れの中に飛び込んだ。慌てて教室に向かう生徒たちをかきわけて校舎に入り、廊下を行く異種族の一団をみつけた。彼らはラファエロに気がつくと手元を隠すようにして早足に階段を昇っていく。
 ラファエロは前を行く生徒達を押しのけて階段を駆け上がった。驚いて散り散りに逃げようとする彼らの一人を捕まえた。そして恐怖で固まる半端な異種の顔に思いきり拳をふりおろした。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 ぱ、ぱ、と窓の外で光が移り変わった。カメラを構えた腕が幾つも伸びてきて、ぱちとフラッシュが光った。教師がカーテンを引いて窓を隠す。ラファエロは腕を組んだまま古いパイプ椅子に座り、棚に並んだ進路指導なにやらとか年度別学習なにやらとか書かれた本の背表紙を目で追っていた。部屋の反対側ではジャージ姿に首から笛を提げた体育教師が怒気を孕んだ声で異種族の少年に詰め寄っていた。
 どうしてこんなことになったんだ。わかりませんとつぜん殴られたんです。半分きつねの顔をした少年は頬に氷をあてながらしくしく泣いた。教師はいらついていた。原因はなんだ。わかりません。なにかあるだろう。わかりませんわかりません僕はなんにもわるくないです。おいどうなんだ!
 ラファエロは答えない。
 まったくどいつもこいつも。教師はうんざりしたように言って、カーテンの隙間から外を覗き、騒ぎが収まったら帰っていいぞと言った。処分は追って伝えるからしばらくは来なくていいとも言った。
 ラファエロはすぐに立ち上がって、教師がとめるのも聞かずに部屋を出た。外で耳を澄ませていた生徒たちが、驚いて後ずさる。乱暴に扉を閉めるとまたさらに後ずさる。ラファエロは彼らをひと睨みし、人垣を押しのけてロッカーに向かった。荷物をとろうと自分のロッカーを開けると、くさったものの匂いが立ち込めた。みると中にあったバックパックは生ゴミに埋まり、教科書もノートもよくわらない茶色っぽいもので汚れていた。急に目の前が真っ赤になったようになって、何もとらずにロッカーを閉め、扉を蹴りあげた。その音は廊下中に響き渡り、ロッカーはみごとにへしゃげて開きっぱなしになった。その足で駐車場に向かい、倒れたバイクを起こし、折れてぶらさがる泥よけとランプをむしりとってシートの中に投げ入れ、エンジンをふかして入り口でぐずついている車の横すれすれを無理に抜けて学校を飛び出した。
 ごろごろと機嫌悪く空がうなった。濃い霧が立ちこめて、すぐに強い雨に変わった。横殴りになる雨の中をヘルメットもかぶらずに猛スピードで走った。だんだん視界が狭くなり、顔も指先も冷えて感覚がなくなった。オレンジに光るカーブの指示記号だけが、うるさいくらい目に入る。山道の入り口へきたとき、風が低いうねりと共に杉の木を揺らした。ぎゃあと鳥が鳴いて一斉に飛び立ち、まるで雷が落ちたみたいな音がして、みあげると杉の木がゆっくりと倒れてくるところだった。とっさにブレーキを踏む。タイヤは白煙を立ててアスファルトを滑り、倒れた大木に鼻先をぶつけるようにして停止する。ラファエロは目の前に迫った幹のざらついた肌を前に、ほっと息を吐き出した。
 道路は、ラファエロの背丈ほど幅のある杉の大木で完全に塞がれていた。ラファエロはバイクから降りて大木の根元から先まで何度か往復したあと、後から来た車を止めて警察に連絡をとった。そうしているうちに雨は益々強くなった。ラファエロはバイクを路肩に停め、家まで歩いて帰ることにした。道中、すれ違った車を停めて道路の状況を説明しながら歩いたので、家に着くころには夜になってしまった。
 鍵を開けて玄関に入り、扉を閉めると、急にあたりが静かになって壁掛け時計が時を刻む音が聞こえてくる。ぼんやりと時計の音を聞いているうちに全身から滴る水で玄関がみるみるうちに水びたしになった。べしゃべしゃと濡れた音を立てながらバスルームへ向かう途中に、明かりの灯ったリビングを通りかかる。誰もいないと思っていたラファエロは足を止めて振り返る。
 そこには、しゃんとした制服姿の、頭に警帽まで被ったヨシが立っていた。帽子の下から瞬きもしない黒い目がラファエロをみつめている。ヨシはラファエロの姿を認めると何も言わずバスタオルを投げてよこした。ラファエロはとっさのことに受け取り損ね、落ちたタオルを拾った。どくどくと、ものすごい速さで心臓が脈打った。
「それで、」
 ラファエロは身構えた。
「今度はいったいどういうわけなんだ」
 説明してくれ。ヨシは平坦な口調で言った。
「・・・クラスのやつを、殴った・・・」
「どうして」
「・・・オレのバイクを、こわしやがった、からだ」
「向こうは何もしてないと聞いたぞ」
「うそだ」
「じゃあ、見たのかお前は、その子がバイクを壊しているところを、自分の目で」
「・・・」
「今度は前のときとは違う。無防備な相手に暴力をふるったんだ。同情の余地はない」
「オレは、」
「言い訳は聞きたくない!」
 ヨシは声を荒げ、帽子の下に顔を隠した。そしてこつこつとブーツを鳴らし、ふっと息をついてから、
「まずは着替えてこい。話がある」
「・・・いい」
「なんだ」
「話すなら今がいい・・・疲れてんだ」
 ラファエロは呟いて目を閉じる。分かったと言うヨシの声と折り重なった分厚い紙が擦れる音がした。
「実は、母親から正式に申し出があったんだ。お前を引き取る準備があると言ってる。・・・それでつまり、審査は取り消しになった。お前は母親のところへ戻ることになったんだ」
 ヨシは淡々と続けた。
「力になれなくてすまないと思ってる・・・本当に。でも、ここももう都会より安全とは言えないし、お前にとってもそのほうが良いと、」
「なんでだよ」
 ラファエロは目を開けた。
「じゃあなんでオレを引き取るなんて言った」
「それは、・・・」
「最初からその気がないなら放っといてくれれば良かったんだ」
「それは違う!今だってできることなら俺はっ」
「もういい」
 咽が詰まって、蚊の鳴くような声になった。顔が燃えたように熱くて、頬を流れるものが涙なのか、雨の名残なのか分からない。
「もうどうでもいい」
 ヨシの顔は潰れ、今にも溶け出しそうにみえた。身を乗り出して何か言おうとしていたが、もうその場に一秒でもいたくなくて、足を引きずるようにして二階へあがっていった。
部屋の窓は出たときと変わらずしっかりと閉じられている。
 床がぐらぐら波打ちはじめた。体が重くて、このままどこまでも沈んでいくような気がした。なんとかベッドまで歩いていって倒れ、端っこにしがみついた。水を含んだシーツが誰もいないベッドの半分を黒く染めていき、ラファエロは赤く燃える瞼をぴったりと閉じた。
 
 
 
 










トワイライト〜亀