「・・・ということで、今期の授業は今日が最後になるわけだが、こら、まだ話は済んでないぞ。黙って、静かに!ほんの5分も座っていられないのかね君たちは。まったく。成績表はもらったな。一つでもCマイナスがあったものは補修授業に参加しないと年度末の単位はもらえないからな。今配っている用紙がそれだ。単位が危ないものは必須だが、任意参加も可能だ。希望するものは学生課に届け出を忘れないように。君らもそろそろ自分の進路を考えなければならないんだから、休みの間に、いったい自分はどうしたいのか、そのためには何をするべきなのかを考えて、親御さんともしっかり話し合ってほしい。私が学生のころは・・・なんだその顔は、興味ないか?ん?・・・分かった分かった、それでは、新学期に少しは成長した顔をみられることを楽しみにしている。以上!」
 夏休みがやってきた。
 授業の終了を告げるベルが鳴り、生徒達は我先にと教室を飛び出した。廊下は人であふれ、掲示板に張り出された夏のアルバイト求人の連絡先は次々とちぎり取られていった。
 ラファエロは静かになった教室で一人座ったまま辺りに誰もいないことを確かめると、手に持った成績表をそろそろと開いた。みごとなほどにCが並んでいた。いや、一つだけAがある。スポーツの欄だった。この高校は選択で武術をとることができて、どうやら自分に向いていたらしい。よくみればBも一つある。生物学だ。成績上位者のレオナルドが一緒だったおかげで助かった。隅々まで目を通してCマイナスがないことを確認すると、ラファエロはふうと長い長い息を吐き出した。
「どうだったんだ?」
「うおっ!?」
 後ろから声をかけられて、持っていた成績表を引きちぎりそうになる。振り向くと、レオナルドがいたずらに成功した子供のような顔をして立っていた。
「脅かすなっていってんだろ・・・」
 あれ以来、レオナルドとよく話すようになった。最初のころはうるさかった周りの生徒達も数日経てば飽きて今はもう構ってくることもない。
 ラファエロはしわくちゃになった成績表を鞄に押し込みながら、得意そうにしているレオナルドに、お前こそどうなんだと聞く。
「まあまあだったな。今回の数学はまともにやっても満点がとれないようになってた。気がついたか?」
「しるか」
「だな」
「おい」
「最後の一問だけ習っていないところが出ていた。なにかの間違いか、しらないけれど」
「おまえは平気だろ」
「別に未来が見通せるわけじゃない。テスト勉強くらいするさ」
 二人は隣り合って歩きながら廊下へ出た。さっきまで騒いでいたはずの生徒たちの姿はまばらで、ロッカーやトイレの前で夏の予定を話し合う女の子たちのささやきが残っているだけだ。
 レオナルドが足を止めて、廊下の先を見る。壁に、成績上位者の名前が張り出されていた。30近く並ぶ名前の一番上に、少し大きめに書かれているのは中でも優秀な生徒の名前だ。それをぼんやりと見上げている生徒がいた。鈍い緑色の頭に紫のマスク。珍しく今日は一人でいる。
「あれ、おまえの兄弟だろ」
 ラファエロが問うと、レオナルドは曖昧な顔で頷く。
「天才は今回もトップか」
「うちのなかでもドナテロは特別だ。あいつは、テストをおとしたことがないからな・・・」
「知ってる。頭いいくせに飛び級を断ってるってな」
 ラファエロがうんざりしたように言うと、向こうで掲示を眺めていたドナテロがこちらを振り返った。レオナルドの姿を認め、嬉しそうに歩み寄ってきたが、隣に立つラファエロをみつけたとたんに凍りつく。
「ドニー、大丈夫だ」
 レオナルドが手招くが、ドナテロは首をふって後ずさり、ばっときびすを返して行ってしまった。
「全然、大丈夫じゃねぇし」
「照れてるんだ」
「オレのことが嫌いなんだよ」
 口を尖らせながら言うと、レオナルドは信じられないといった顔で、こちらを見た。
「どうしてそう思う」
「あんだけ避けられちゃ誰だってそう思うだろ」
「ラフ・・・」
「・・・あんだよ」
「夏の予定は?」
「あ?」
「ないなら、俺の家にこないか?先生がラフに会いたいといってた」
「・・・おまえんちのテーブルにのる気はねぇぞ」
「家族を紹介したいんだ。どうも信用されていないみたいだからな」
「んなことねぇよ」
「そうか?」
「オレみたいなのに寄ってくるのは、変わり者か重度のお人好しだけだ。なにかあるやつはすぐわかるから関わったりしねぇ」
「どうやって見分ける」
「匂うんだ。なんとなく」
「俺のことも?」
 不安げな声で言うレオナルドに、ラファエロはどこか楽しそうに囁いた。
「なかでもおまえは相当のいかれ野郎だぜ。レオ」
 隣り合っていた肩をこづいてラファエロはにいと満面の笑みを浮かべると、駐車場へと続く扉を開け放った。レオナルドはその背中を呆けたように眺めていたが、はっとしたように後を追って外へ飛び出す。
「ラフ!」
 ラファエロは最近改良を加えたばかりのバイクにまたがって、レオナルドを振り返った。
「どうなんだ!」
「なにが」
「家に来るかどうかって話だよ!」
「ああ、」
 ラファエロはヘルメットを被りながら、どこかよそよそしげに、
「働くんだ。今日から、隣の修理工場で」
「そう、か」
「でも毎日じゃない・・・そうだな、さ来週の金曜なら、」
「迎えに行くよ!」
 声高に答えるレオナルドの方は見ずに、ラファエロはバイクをゆっくりと走らせはじめた。学校を出る直前に、少しだけ目をやるとやけに嬉しそうな彼のうしろ姿と、いつもどおり鮮やかな、青の軌跡。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 薄い雲の切れ間から太陽が覗くと、みんな喜んだ。今ある納車さえ済ませてしまえば、働きづめの修理工たちは数日の休暇を約束されていたからだ。
 ラファエロが雇われたのは、隣に住むサキとカライ親子が経営する小さな自動車工場だった。暇なら雑用でもやらないかとカライに誘われ、ラファエロも自分のバイクくらいは自分で面倒がみられるようになりたいと考えていたので、二つ返事で引き受けた。
 実際、人手は足りていないように見えた。工場はショッピングモールに新しくできた大手チェーンのメンテナンスセンターに対抗するため、設備を新しく入れ替え、営業時間を延ばし、納車期間を大幅に縮めるという体制をとらざるを得なくなっていたのだ。
 中でもラファエロが一番驚いたのは、足の悪い社長のサキに代わり、修理の大部分を彼の娘であるカライが長となり行っていることだった。自分よりもずっと年かさのある修理工たちを束ね、つややかな黒髪を油まみれにして働く彼女に、ラファエロはほんのわずかな憧れの気持ちを覚えていた。正直な話、工場仕事に関してラファエロはついていくだけで精一杯で、とても彼女の役に立っているとは言えない。怒られることも多かった。それでも、原因の分からない不具合をみんなで話し合いながら丁寧に車体を解体していってごくごく小さなナットの歪みを発見したときや、瞬く間に新品同様に生まれ変わる中古車を見ているのは楽しくてしょうがなかった。
「ラファエロ」
 外で車を洗っていたラファエロは、ホースの水をとめて振り返った。作業着の前をはだけ、ガレージに続く戸を足で荒っぽく閉めてこちらにやってきたのはカライだった。相変わらずの仏頂面だが、別に怒っているわけではないらしい。ちなみに本当に機嫌が悪いときでも区別がつかないのがやっかいだ。
「よう、終わったのか」
「だいたいは」
 彼女は面倒そうに言って胸ポケットから煙草を取り出して火をつけた。一本勧められて、ラファエロは礼を言ってそれを受け取る。周りに誰もいないことを確かめてから、二人で縁石に腰掛けて煙草をふかした。最近は午後の一仕事を終えたあと、何をするでもなくこうやって二人で過ごすのが日課になっていた。
「ヨシはどうしてる」
 彼女は口の端から遠慮がちに煙をはき出して聞いてきた。
「どうって?」
「最近は家に帰ってるのかって、父さんが」
「あー・・・3日にいっぺんか・・・今日帰って来なければ4日だ」
「二人でいるときは話すのか、ヨシは、自分の仕事のこととか」
「べつに」
 ラファエロは指の間でちりちりと焼ける灰に目を落とした。カライはその様子をちらりと盗み見て、短くなった煙草を咥えなおしながら言った。
「噂を聞いた。湖の事件は狼の仕業じゃないらしい」
「なんだそれ」
「見たやつがいるんだそうだ。さっきみんなが話してた」
「見たって何を」
「犯人を」
「・・・人間なのか?」
「2メートル以上ある大男で、のこぎりみたいな牙を持ってるらしい」
「はあ?」
「酒の席の話だから、信用できないけどな。ヨシから何か聞いてないか」
「・・・なにも。ただ気をつけろ、湖と森には近づくなって。で、こいつをくれた」
 ラファエロが作業着の尻ポケットから催涙スプレーを出して見せると、カライは一瞬驚いたような顔をしたあと、顔を背けてごほごほと大げさなくらい咳き込んた。
「どうせ似合わねぇって言うんだろ」
「いや、いいと思う。せっかく、くれたんだし」
「こっち見て言え」
 振り返ったカライは涙目で、ラファエロの顔を見たとたんに耐えきれないというように腹を抱えて笑い始めた。ラファエロもスプレーを手の中でくるくる回しながら一緒に笑った。彼女はひとしきり笑ったあと、煙草の吸い殻を並んだ植木鉢の下に滑り込ませた。ラファエロもそれにならったあと、改めて座り直して深呼吸する。そして、ここ最近ずっと考えていたことを今日こそ言おうとカライに向き直った。
「話がある」
 カライが笑いすぎて赤くなった目をこすりながらこちらを見る。
「実は、まだ先の話だけど、学校で、アレがあって、」
「アレって?」
「あー・・・アレだよ、ほら学期の最後に・・・」
 カライは眉を寄せ、言いよどむラファエロを不信そうに見ている。ラファエロは、作業着のジッパーを締め直して、ひとつ息を吸った。
「オレと、プロムにっ」
 ぱぱーっと、車のクラクションが鳴って、ラファエロの声はみごとにかき消された。間を置かずに一台のボルボが敷地内に滑り込んでくる。真新しい高級車は、ラファエロの目の前で停車する。嫌な予感がして、立ち上がりかけたカライをとめた。扉が開いて、中から出てきたのは学校のときよりいくらかカジュアルな格好をしたレオナルドだった。
「やあ」
「・・・迎えにはまだ早いよな」
「家まで行ったら、ここの場所を教えてくれたんだ」
「ヨシが帰ってるのか」
「挨拶をしてきたからな」
 後ろにいたカライの手が、ぽんとラファエロの肩に置かれる。見ると、彼女はいつになく真剣な面持ちで、突然の来訪者を眺めていた。
「カライ、こいつはレオナルド。学校で、」
「・・・スプリンターJr.、だな」
 彼女の黒い眉がきゅっと持ち上がり、緊張した空気が場に満ちる。レオナルドは車の戸を閉じて、にやと口の端を歪めた。
「ああ、君か」
「知り合いか?」
「「まあな」」と二人は同時に答えた。
「知っていて来たんだろう。相変わらずだな、レオナルド」
「君らがどこで働いているかなんて、いちいち調べない」
「近づくなと警告した」
「何度も言うが、誓って知らなかった」
「・・・出て行け。父さんに見つかる前に」
「ラフを拾ったらすぐにでも出て行くさ」
「そんなことはさせない」
「約束してるんだ。本人に聞いてみればいい」
 カライのまっすぐな目が、話についていけずに立ち尽くすラファエロに向けられる。
「そうなのか?」
「お、おう」
 戸惑うラファエロに彼女はぐっと顔を近づけ、小さな声で耳打ちした。
「スプリンターの一族を信用するな。お前を騙そうとしてるんだ」
「君らはいつもそうだな。根拠のないうわさ話ばかり信じて、目の前のことは受け入れようとしないんだ」
 カライはレオナルドを睨み付け、ラファエロを背後に庇うような格好で立ちはだかる。
「・・・いいか、こいつに少しでも妙なマネをしたら、私たち一族が黙っていない。どこへ隠れようと必ず見つけ出して最後の一匹まで、」
 途中まで言って、カライはレオナルドの顔の前で拳を固く握りしめてみせる。そのままふいとラファエロの脇をすり抜け、振り返ることなく扉の向こうに消えた。
 ラファエロは目の前で飄々としているレオナルドに向き直る。
 レオナルドはどこか物憂げに、
「まあ、嫌われるっていうのはこういうことさ」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
「家に寄ってからいくか」
「いい」
 助手席に沈んだまま荒っぽく答えると、レオナルドはため息をついて前に向き直り、運転に戻る。
 霧雨が降りはじめた。小さな水滴があっという間にガラスを曇らせる。ラファエロは流れる雨粒を横目に隣をみやったが、レオナルドはフォグライトを点けて速度をあげただけだった。曇る窓の向こうから、綺麗に整った芝生とそこに建つ古い一軒家が見えてきた。レオナルドの言っていたとおりヨシが帰っているようで、居間に明かりが点っている。身を乗り出すと、それを察したレオナルドは何も言わずに速度を緩めてくれた。ヨシは一人、窓際の椅子に腰掛けていた。遠くてはっきりとは分からないが、その肩は落ち、酷く疲れているようにも見える。やはり一度帰ったほうがいいだろうかと思いはじめたとき、ヨシがぱっと顔を上げて誰かを呼び入れた。柔らかい暖色の明かりの中に進み出てきたのは、紺色のスーツを着た金髪の女性で、まるで昔から知った仲という様子でヨシに笑いかける。ヨシが立ち上がって女の背中にうやうやしく手を回し、二人は奥の部屋へ消えていった。
「・・・本当にいいのか」
「なんだよ」
「気が乗らないなら今日はやめよう。オレはいつだって構わないから」
「いいんだよ」
「でも、」
「いいから行けよ」
 ラファエロは外を向いたまま答えた。レオナルドは霧の中にぼんやりと浮かぶ家が完全に見えなくなるまでゆっくりと車を走らせた。
 風が強く吹いていた。今夜は嵐になるかもしれないと天気予報で言っていたことを思い出す。車は街を出て郊外にさしかかった。急に速度がおちて、大きな鉄門をくぐり抜けたのが分かった。静かな木立を抜けると、芝生の丘が現れる。丘の上には煌々と明かりのともった大きな家が一件建っていた。横倒しにした長方形の箱をわざとずらして積んだような不思議な形の家で、二階より上はほとんどがガラス張りなために、木目調でそろえられた屋内がそのまま見えた。車は宇宙船の入口みたいな玄関先に停車した。ラファエロが降りるとレオナルドは車をガレージに入れてくるから先に入っていてくれと告げてすぐに行ってしまう。
 近くで見るとその家は視界に収まりきらないほど大きく、全体が銀色に輝いているように見えた。ラファエロは己の姿を顧みた。持っているのは使い古したボストンバック一つで、汚れた作業着を着替えてもいなかった。目立った汚れをぱたぱたと払い落としてからおそるおそる玄関扉に触れる。薄い扉は音も立てずに開いた。真っ白い蛍光灯の光に目を細めながら中に入る。ラファエロの部屋ほどもある玄関があり、その先はフローリングの床が広がっていた。中央には二階へ続く円筒状の階段が伸びている。部屋を仕切る壁や扉は見あたらず、玄関のすぐ隣はリビングになっていた。三人掛けのソファと、その脇には革張りの椅子があり、中央にはラファエロの背丈ほどもありそうなテレビと、最新式のスピーカーを両脇につけたホームシアターがある。その奥には食事用のテーブルと、奥はキッチンだろうか。ほのかにチーズの焼ける匂いが漂ってきた。
「・・・すいません、」
 ラファエロが遠慮がちに声をあげると、ソファの方でがたんと何かが落ちたような音がした。見ると、いつ来たのかドナテロが一人で立っており、じっとこちらを見ている。その目は前に見たときと同じように、不安と疑念に満ちていた。ラファエロはうさんくさい笑みを貼り付け、彼を刺激しないようになるべくゆっくりと近寄っていくが、彼は益々体を緊張させ、目の前に立つころには瞬きもできないくらいに固まってしまった。ラファエロはドナテロの濃紺の瞳を見返しながら、
「なあ、オレがなにかしたか?」
「・・・」
「頼むからしゃべってくれ」
「・・・ま、」
「ま?」
「マイキー!!」
 突然叫ばれて、ラファエロは足を滑らせそうになった。ドナテロのヒステリックな悲鳴からいくらも立たないうちに、やや小柄な影がキッチンから飛び出してくる。そいつはテーブルや椅子をひょいと飛び越えてラファエロの目の前に降り立った。オレンジのマスクから丸い大きな目が二つ見上げてくる。ドナテロはその背後で両手を口に当て、何かまずいものでも食べたみたいに苦悶の表情で唸る。
「へぇ」
 高い声が答えた。青い目がくるくると回って大きな口がにんまりと笑う。ラファエロが軽くにらみをきかせると、彼は唸ったままのドナテロを引き寄せて耳元で何事か囁いた。
「あんだよ」
「べつに」
「べつにってなんだよ」
「ふーんそうかそうかって思っただけ」
「だから何がそうかでふーんなんだよ」
「へぇでふーんでそうかそうかだよ」
「順番なんざ聞いてねぇ」
「じゃあ何が聞きたいわけ?」
「だからこいつが、いやあんたがいきなり、」
「いきなりぃ?」
「・・・・・・忘れた」
「うわ、ださ」
「・・・ぶっとばすぞてめぇ」
「やってみなよ」
 思わず伸ばした手は、手応え無く空を切った。あれと思ったとたんに視界が反転し、ラファエロは派手な音を立てて仰向けに倒れていた。けたけたと笑う声がして、白い天井を背景に青い瞳が意地悪そうに見下ろしてくる。こうやって見下ろされるのは何度目だろうかと考える。ラファエロは高い天井を見上げたまま、真ん中で揺れるシャンデリアを指さした。見下ろしていた目がふいにそれるのを逃さずに彼の足首を掴んで引き倒す。わあと声をあげる彼を床に押さえつけ、
「うわ、だせぇ」
 と呟いてやる。つかみ上げた彼の腕はやはり体温が低く、鼓動を打つ気配も感じられなかった。そこへ、チンと間抜けな音が響いて、その場にいた全員がキッチンに目をやる。
「おまえの負けだな。ミケランジェロ」
 あきれ顔のレオナルドが、両手に湯気のたつ大皿のプレートを持って立っていた。そのすぐうしろに、もう一人。灰色の体毛に覆われた面長の顔と左右に伸びた長い三本髭。やや前のめりで現れたのは鼠の姿をした老人だった。黒い大きな目にラファエロの姿を認め、頭にのった三角の耳がひくりと持ち上がる。
「ラフ、こちらがスプリンター先生。俺たちの父親で師匠でもある。そっちの二人は・・・もういいだろ」
 ラファエロとミケランジェロは慌てて立ち上がって、服を整えた。レオナルドが大皿をテーブルに置く。皿にのっているのはラージサイズのピザだった。たっぷりした生地にきつね色のチーズがたっぷりとかかり、厚めに切ったペパロニとダイス型の真っ赤なトマトが散らしてある。もう一つの方は生地は薄めで、ナチュラルチーズとモッツァレラチーズがぐるりと混ざって綺麗な円を描いている。目立ったトッピングは無いが、格子状にかけられた琥珀色のソースからは仄かに甘いにおいがして、ラファエロは思わず身を乗り出しそうになった。レオナルドが、未だ後ろで硬直したままのドナテロに声をかける。
「ドニー、ちゃんと聞いたのか」
 ドナテロは視線を受けてがくがくと頷くと、口を押さえていた手をおろし、苦行に向かう修行僧みたいな顔で、
「お・・・お腹は、すいてる?」
「あ?」
「僕、と、マイキーで、作ったんだ。君が来るっていうから・・・はあ・・・普通の料理を・・・」
「・・・具合でも悪いのか」
「ちょ、ちょっと慣れてなくて、君みたいに・・・う・・・匂いが強いと」
「・・・ああ、バイトから直接来たから風呂入る暇なくてよ」
 ラファエロが自分の匂いを嗅ぎながら言うと、小柄な彼、ミケランジェロは笑いながら、
「そういうんじゃなくてさ、おまえが美味しそうだってこと」
「美味しそう?」
「そ、オイラは平気だけど、ドニーはまだ我慢できなくなるときもあるからあんまり近寄らない方がいいかもね」
 言われて隣を見るとほんのりと金色がかったドナテロの瞳が、じとっと全身に張りつくのを感じた。ラファエロは両手を挙げて後ずさりながら、
「・・・わ、分かった」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 スプリンターが茶をすすっている。正確に言うと、一見お茶にみえる赤茶色の湯をすすっている。その中身がなんなのか、ラファエロには聞く勇気がない。次々と出てくる料理はなぜかラファエロの前だけに置かれて、料理を作った彼らが口をつけることはなかった。じっと見られながら一人で食べるというのはどうも落ち着かないが、それでもせっかく出されたものを残すわけにはいかないと、一口ごとにうまいかどうか聞いてくるミケランジェロに答えてやりながら半ば意地で平らげた。前に座るスプリンターがほほえましくその様子を見守っている。
「なんでわざわざこんな田舎に来たの」
 ミケランジェロが身を乗り出して聞いてきた。
「マイキー」
「だってそうじゃんね」
 ドナテロが無言で頷く。
「ここにはヨシがいるからな。他がどうとか、考えたことねぇよ」
 食後に出されたコップの中身は市販のサイダーで、ラファエロは浮かんでは弾ける泡を目で追いながら答えた。
「じゃ偶然か運命?良かったね、レオ」
「ん?」
「パートナーがみつかって」
 スプリンターの湯飲みに茶のようなものを注いでいたレオナルドの手が止まる。ミケランジェロはそれには気がつかずに話を続けた。
「レオが我慢できなくなったのなんていままでなかったからさ。学校に出られるようになるまでめちゃめちゃ大変だったんだよ?修行が足りないからだって言って何日も山ごもりして、帰ってきたと思ったら餓死寸前なんだもん。ひびったよオイラ」
 青い瞳が楽しそうに弧を描く。
「ねえ、いっそ仲間になれば?オイラは大歓迎!」
「ミケランジェロ」
 今まで黙っていたスプリンターが、たしなめるように言った。なんちゃってと頭をかくミケランジェロを前にラファエロは首をひねる。スプリンターは骨張った指で湯飲みを撫でながら、
「レオナルドの選んだ相手なら、わしらの家族も同然じゃ」
「あの、すいません」
 声をかけると柔らかく細められた黒目がラファエロの方に向けられる。
「そのパートナーってのは、」
 がたんと音を立ててレオナルドが立ち上がった。はずみで倒れた椅子を直すこともせずに、驚いているラファエロの腕をわし掴んで歩き出す。
「お、おい!」
 強い力にあらがえず、転びそうになりながらもレオナルドに従って階段を上る。振り返るとこちらもわけが分からないという顔をした三人が、ラファエロを見上げていた。
 階段を上ると、灰色の空が一面に広がっていた。流れる雲が渦を巻き青光りが走る。レオナルドは振り返らずに歩き続け、奥にある扉を開け放った。腕が離されて、いきおいをとめられずに窓ガラスに正面からぶつかった。手をついた窓に、えらく真面目な顔をしたレオナルドが映っている。振り返って部屋を眺めると、天井までありそうな本棚が幾つもあって、学校の図書室よりもたくさんの本が並んでいた。言語や形態、古いものから最新のコミックまでたくさんの種類がある。本棚の真ん中には大きなオーディオセットがあり、すぐ脇でCDが山積みになっていた。タイトルは見る限りすべてクラシックだ。
 レオナルドが部屋の扉を閉めて鍵をかける。何も言わず歩み寄ってくる彼にうすら寒いものを感じて後ずさるが、後ろは分厚い窓ガラスだ。間近に立ったレオナルドは、参ったというように額に手をやったあと、何か決意に満ちた顔を向けた。
「話がある」
 どこかで聞いた言葉だ。
「実は、まだ先の話なんだが・・・」
 これもまた聞き覚えがある。ラファエロは必死で記憶をたぐりよせた。
「俺とプロムに行かないかっ」
 ああそうだった。ラファエロはやっとそれは自分が言うはずだったことを思い出した。レオナルドはえらくうわずった声で、
「すまない・・・前から考えていたんだけれど、ラフはもう相手がいるようだったから、一度は諦めたんだ。でも全然そんなそぶりはないし、ケイシーからもまだ決まっていないはずだと聞かされて、それで・・・」
 レオナルドが話し終るころになって、やっとラファエロは我に返った。
「は?」
「あ、いやその」
「オレとお前が?」
「・・・だめ、か」
「ふざけんなよ」
「え、」
 レオナルドは瞬きを繰り返す。
「なんだ、誰かと賭けでもしてんのか。いくらオレがとんでもない馬鹿でもそんなんにひっかかるわけがねぇ」
「ラフ」
「はっ、冷人族がどうしたって?いつからだ。どいつとグルなんだよ!」
「ラフ!」
 肩を強く掴まれる。振り払おうとした腕をとられて本棚に押しつけられた。衝撃に呻くと、ふいに手が離れる。ラファエロはすかさず彼の腹めがけて足を振り上げた。手応えはあった。けれどよろけたのはラファエロの方で、背中からいきおいよく本棚に倒れ込む。上に積まれていた大型の辞典や雑誌が崩れ落ちてきた。レオナルドがとっさに幾つか払いのけたがさばききれず、ラファエロはあっという間に本に埋まってしまった。落ちてきた本はそのほとんどが歴史や哲学書で、中にはラファエロが知っているものもあった。<狼と冷人族>だ。
 押しのけようともがいていると、力強い腕に引き起こされる。困り顔のレオナルドが安否を確かめるように額や頬に触れて、突然、その手を引っ込めた。もうろうとする頭を抱え、ラファエロがようやく立ち上がったときには、レオナルドはうずくまって体を震わせていた。じんじんと傷む頬をぬぐうと、唇が切れてわずかに滲んだ血がのびるのが分かった。
「・・・レオ」
 顔をあげたレオナルドの瞳は綺麗な金色に染まっていた。視線に気がついたのか、彼は慌てたように顔を両手で覆い、
「ちがうんだ。だまそうなんて思ったことはない。君が好きだ。すごく身勝手な意味で。他にどう言ったらいいか分からない」
 すまない、と彼は両目を塞いだまま謝った。ラファエロは、うずくまるレオナルドの前にかがみ、顔を覆っている腕をよけてやる。瞳は徐々にもとに戻りつつあった。
 窓ガラスが音を立てる。こちらを見るレオナルドになにから切り出そうかラファエロは考えた。かつんと窓が鳴る。続けて二回三回と音がして、不思議に思った二人は窓に歩み寄った。芝生の真ん中で、大きく手を振るミケランジェロをみつけた。背中からこれ見よがしにバットを取り出して、スローモーションでフルスイングしてみせる。同時に稲光が頭上を横切り、間を置かずにバリバリと音を立てて落ちた。
「なにやってんだあいつ」
「いこう」
「外あんなだぜ」
「いいから」
 少し怖々と誘ってくるのを断われず、ラファエロはまたレオナルドの後について勝手口から庭に出た。するとレオナルドはいきなり履いていた靴を脱いで放り、裸足のまま駆けだした。ミケランジェロが待っていたというように、野球のグラブを投げて寄越す。
「邪魔しちゃった?」
「うるさい」
 にやにやと笑うミケランジェロの肩をぐいと押し、レオナルドはグラブを手にはめた。そこへどこからかボールが飛んできてレオナルドは慣れた仕草で受けた。ボールを寄越したドナテロは、少し離れた場所でグラブをはめた手を振ってしゃがみこみ、さあ来いとばかりに受け手に構える。ミケランジェロがそばに立ち、足でバッターボックスのスクエアを描いた。レオナルドが数歩さがり、足下からロージンバッグをとるような仕草をして笑う。ミケランジェロはバットの先を向け、早すぎるホームラン宣言だ。
 ぼんやりと眺めていたラファエロの頭上で稲光が走った。とっさに耳を塞ぐと掌越しにがらがらと落ちる音。目の前の三人は特に気にもしていない。レオナルドが空を見上げ、ぐっとももを引きあげて振りかぶり、投げた。空が光る。ミケランジェロがバットを振った。稲妻の落ちる音とバットにボールがあたってすさまじい音を立てたのはほぼ同時で、ボールは新幹線並みの早さでレオナルドの頭上を通り抜けた。
「あたりー!」
 ミケランジェロが叫び、森の向こうにすいこまれていくボールをレオナルドが追いかけて走っていった。それはあっという間のできごとで、ラファエロはただ呆然と眺めているしかなかった。
 いまさっきホームラン宣言を成功させたミケランジェロが、ラファエロにバッドを押しつけてくる。そしてジーンズの尻ポケットに押し込んでいたグラブをつけてしゃがみこんだ。ラファエロは楽しそうにグラブを叩く彼と、正面でゆっくりと立ち上がるドナテロを交互に見て呻いた。
「化け物と勝負さす気かよ」
「やってみなきゃわかんないじゃん。あいつノーコンだし、いけるって」
「よけい悪いじゃねぇか!」
 そうこうしているうちにレオナルドがボールを持って戻ってきた。彼は目の前の状況を見ても特に文句を言うわけでもなく、ボールをドナテロに渡す。「ほら来るよ」と急かされて仕方なくバットを構えた。とたんパンと乾いた音がして、ミケランジェロがグラブを振り「ストラーイク」と叫ぶ。まったく見えなかった。これじゃあアニメで見た魔球かなにかだ。打てるわけがない。ドナテロをみると相変わらずじとっと張り付くような視線でこちらを見ている。どこがノーコンだと毒づきながら、めげずにバットを構える。ミケランジェロがボールを向こうに渡し、ドナテロが振りかぶってすぐ、ぱしん。とまた音だけが聞こえた。ストライクツーと声。
 ラファエロはバットをドナテロに向けて、叫んだ。
「ゆっくり投げろ!そしたらちょっとだけ囓らせてやる!」
「なっ」
 端で見ていたレオナルドが声をあげる。
「オレは本気だ!」
「馬鹿なことを言うな!ドニー!真に受けるんじゃないぞ!」
「うるせぇ外野はひっこんでろ!来いドン!」
 ドナテロが無表情でグラブを引き寄せた。振りかぶって投げる。白い円がまっすぐに向かってくるのを今度こそ視界に捕らえることができた。ボールの軌跡をぎりぎりまで追いながら軸足を踏み込んだ。カンと小気味良い音がして、球は見惚れるくらいの流線型を描き、森めがけて飛んでいった。レオナルドはそれを追うこともせず、ドナテロの頭を叩いて「ドニー!」とどなっている。
 すぐ横からミケランジェロの含み笑いが聞こえてきた。ラファエロはにやりと笑って彼と拳同士をつきあわせる。そのままハイタッチとばかりにあがったミケランジェロの手が、ふいに伸びて、ラファエロの顔をかすった。同時にぱしんと音がして、見るとその手には土煙をあげるボールが握られていた。ラファエロが打った球だ。ミケランジェロの顔から笑みが消えた。向こうにいた二人もすぐに駆け寄ってくる。
「どうした」
「わからない。見えなかった」
 ラファエロは、真剣な表情で話し合う三人の頭越しに、不穏な気配を感じて暗く煙る森に目をやった。生い茂る木々の向こうから誰かやってくる。たっぷりと時間をかけて歩み寄ってきたそいつは、黒いレザージャケットとワークパンツ、鉄底のブーツを履いていた。ジャケットの合間から覗く肌は深い緑色で、上にはラファエロと同族の異種であろう、のっぺりとした頭がのっていた。その目には光が無く、左目は黒い眼帯で覆われている。 警戒するレオナルドたちを一望し、そいつは酷いしゃがれ声で言った。
「俺もまぜてくれないか」
「誰だ」
 レオナルドが鋭く声をあげると、男は生暖かい笑みをもらして肩をゆらす。
「俺が入ればゲームができるだろ」
「ここは私有地だぞ。お前のやっていることは不法侵入だ」
「固いこと言うなよ。同業者じゃないか」
「なんだって」
「このあたりを仕切ってるのはスプリンターの一族だと聞いたから、狩り場を荒らすまえに挨拶に寄ったのさ。違うのか?」
 後ろで構えているミケランジェロとドナテロが、不安そうにレオナルドの言葉を待っている。レオナルドは喉を詰まらせてしまったみたいに黙りこくる。
「レオナルド」
 振り返ると、いつの間にかスプリンターが立っていた。スプリンターは静かに前に進み出て、来訪者を迎えた。
「あんたは?」
「わしはスプリンター。遠方からのお客かな。こちらに話は来ていなかったようじゃが、どちらから、」
「団体行動は苦手でね。あちこちぶらついてるから居場所も決めてない」
「そうか。ここにはいつまで居られるつもりかな。よければわしらの家に歓迎しよう」
「・・・いいのか。そっちの連中は嫌そうな顔をしてるぞ?」
 スプリンターがちらりと背後の兄弟たちをみやると、ミケランジェロがぱたぱたと両手を振って「そんなまさかあ」とドナテロの肩を引き寄せる。レオナルドはラファエロをうしろに押しやってから、
「先生がそうおっしゃるなら、俺は構いません」
 男は、喉を引きつらせるようにして笑った。
「せっかくのお誘いだが、遠慮させてもらう。俺は一人が好きなんだ。特に狩りをするときは。」
「そのことじゃが、わしら家族は人を狩らんのだ。ここに古くから住む者たちと交わした掟で決めたことでな。お主もここに居る間はその掟を守ってもらいたい」
 それを聞いた男の目がすっと細められる。
「悪いが。約束できない」
 思わず身を乗り出すレオナルドを制して、スプリンターが杖の先で静かに男の足元を差す。
「ならば即刻出て行ってもらおう」
「嫌だといったらどうする」
「力ずくで追い出すことになるじゃろう」
 ぴりりと空気が張り詰めた。雷鳴がとどろき、男は鈍色の光を瞳に宿して長い息を吐いた。
「面倒はごめんだ」
「お心遣いに感謝する。またこちらに寄られるときにはいつでも歓迎しよう。お主の名前は?」
 男は目の前に立つ同族の一人一人を眺め、にやりと笑って言った。
「”レオナルド”だ」
「ほう」
 前にあるレオナルドの肩がひくと持ち上がるのが分かった。”レオナルド”はひらひらと手を振って歩き出す。わざとらしく真横を通り過ぎていく男の視線がふいにラファエロに向けられる。レオナルドがぐいとラファエロの腕を引いて背後に庇う。不審に思った男の足が止まり、小さく鼻を慣らしたかと思うと、みるみるその顔が醜くゆがみはじめた。
「そいつ、同族じゃないな」
 男の呟きを聞いたミケランジェロとドナテロが前に飛び出して身構えた。
「あんたらエサを飼ってるのか。なるほど、見たことないくらいの上玉だ。少し分けてくれよ」
「この子はわしらの家族じゃよ」
 スプリンターがおだやかな口調で答えた。
「はっ、正気の沙汰じゃないな。そいつは狩られるためだけに存在してるんだ。俺は狩る側。いつの時代もそうだった」
「貴様と俺たちは違う!」
 レオナルドが我慢できずに言い放った。男の瞳孔が急激に縮まり、レオナルドを上から下までじっと眺め回す。そして、
「気が変わった」
 血色の瞳がラファエロを捕らえた。
「もうしばらくここにいる」
「ならば掟を守るか」
「ああ、狩りは外でやることにするよ」
 くつくつと笑う男の瞳を見ていると、体がつめたくこわばっていくのを感じた。立ち去る男の背中からたちのぼる逃げ出したくなるような重い気配につぶされまいと、ラファエロは強く奥歯を噛みしめた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 家に戻る頃には雨になっていた。
 泊まっていけばいいのにとミケランジェロはぎりぎりまでぼやいていた。ラファエロもそうしたかったが、あの”レオナルド”のこともあって、家の様子が心配だった。深夜近くになってやっとたどり着いた家は静まりかえり、ヨシの姿はなかった。あの女性とでかけたのかもしれない。キッチンの洗い場に客用のティーカップが伏せられている。
 ボストンバックから汚れた服を出して洗濯機にかけた。その間に適当にシャワーを浴びて、出てくる頃に丁度仕上がった洗濯物をカーテンレールに並べて干した。リビングのテレビをつける。ヨシが見ていたらしいニュースチャンネルが表示された。相変わらず曇天が続くフォークスの天気と株価予想が流れていた。画面が切り替わり、例の湖の話になる。野生の狼狩りはたいした成果をあげられなかったようだ。先週も郊外の森で首を噛みちぎられた子供の遺体がみつかって、住民たちの怒りの矛先は徐々に警察に向きはじめている。
 ラファエロは乱暴にテレビを消して二階にかけあがった。自室の扉を開けると、窓が開いていてカーペットが雨に降られていた。慌てて窓を閉めると、首からさげていたバスタオルを濡れた床にかぶせ、ぐしゃぐしゃになった雑誌をゴミ箱に無理矢理詰め込んだ。その重さに耐えきれずゴミ箱が倒れたが、もうそれ以上何をする気も起きなくて、綺麗とはいえないベッドに身を投げ出した。深く息をはき出して目を閉じる。眠ろうとすればするほど頭が冴えていろいろなことが頭によみがえっては消えた。
 怒るカライの顔。金髪の女とティーカップ。ミケランジェロの笑い声、椅子を引く音、匂い。雷。曇り空に消えたボール。うずくまるレオナルド。レオナルド。
 玄関のチャイムが鳴った。枕元の時計をみやる。もうすぐ夜中の2時になろうかというところだ。チャイムは鳴り続けた。ラファエロはのそりと起き上がって玄関におもむき、覗き窓から外を見た。雨の中、きびすを返す背中が見える。道の向こうにはボルボが一台停まっていた。ラファエロは二重になっていた鍵をあけ、その背中を呼び止めた。彼は小走りにこちらにやってきていつもと変わらぬ笑顔で「やあ」と挨拶をした。
「こんな時間にすまない。実はみんなと話して見張りをたてようってことになったんだ。あいつはたぶん、ラフに目をつけてる。だから落ち着くまではときどき様子を見に来るよ。とりあえず今日は車にいるから、なにかあれば、」
「そんなことしなくていい」
「でも、」
「迷惑だ」
 大げさに動いていた彼の手が落ちて「そうか・・・そうだな」と肩をすくめてみせる。そのまま帰ろうとする彼を再び呼び止めた。
「プロムの件だけどよ、」
「あ、ああ」
「悪いが、お前とは行けないと思うぜ?」
「・・・・・・分かった」
「注意事項は聞いたのか」
「なに、」
「プロムの実行委員会から説明があったろ、聞いてなかったのかよ」
「すまない、記憶にないみたいだ」
「そういや、お前居なかったんだよな。あれの規定では参加資格は二人組の男女ってことになってる。つまり、オレとお前じゃどっちかが女装でもしなきゃ行けねぇってことだ」
 レオナルドがまさに青天の霹靂といった顔をした。ラファエロは堪えきれずに吹きだした。それを見たレオナルドは少しすねたような口調で、
「しょうがないじゃないか!誰かを誘おうと思ったのなんて初めてだったんだ!」
「出たことくらいあるだろ」
「それはっ・・・あるけど、あのときは誘われて・・・あまり得意じゃないから最近は断っていたし・・・」
 いろいろと思い当たるふしがあるのか、しどろもどろで言い訳するレオナルドに、ラファエロは体を折り曲げて笑った。レオナルドはふっとため息をつくと、笑うラファエロの腕を掴み、えらく真剣な顔で、
「じゃあ、もし規定が男女でなくても良かったら、ラフは俺の誘いをうけたのか」
「さあ、どうだろうな」
ラファエロはにやにやと口元に笑みを浮かべて答えた。
「そんなのは卑怯じゃないか!」
「もし誘いを受けたらお前と二人でタキシード着てダンスするわけだろ。想像するだけで笑い死にしそうだぜ」
「それなら・・・」
 言葉はもごもごと口の中に消えていった。頼りなく揺れる濃茶の瞳がついとあげられる。彼は玄関に足を踏み入れ、ラファエロの腕を強く引き寄せた。そして秘密を打ち明けるような声色で囁く。
「ためしてみたいことがあるんだ」
 ラファエロがなにを、と聞く前にちゅ、と子供がするみたいな口づけをされた。うわと驚く口にますます強く押しつけるようにされて、思わず腕をつっぱった。
 玄関が開いたままだとか、ヨシが帰ってきたらとか、関係があるようなないようなことを考えるが、名残惜しげに離れていったレオナルドの不安そうな目を間近で見たら、そんなことはもうどうでもよくなって、彼の服をひっつかんで噛みつくようなキスをした。玄関脇のキャビネットに痛いくらいに体を押しつけられる。まけじと彼の生ぬるい舌をすくいあげると、キャビネットのふちを掴んでいた彼の手が脆い金具を壊し、あ、とみあげたラファエロの頭上に、いつかの<狼と冷人族>がまっさかさまに落ちてきた。
 
 
 
 








トワイライト〜亀