きしむ。床を蹴る。離れる、しなる、つく、踊る。
 






 
 
 
 
ジゼル
 
 














 
 
 レオナルドがバーを離れるころには、入ってきたばかりの新入生全員が、男も女も性別は関係なく、鏡にうつる若きダンサーに魅入られていた。レオナルドはひととおり準備を済ませたあと、床に尻をついて布でできた柔らかいシューズを履いたつま先とつま先とを合わせ、足を股関節からひらいて床につけながら、流れる曲に聴き入っていた。自分に注がれる視線など一切目に入っていない様子でじいっと床に向かって顔を伏せ、時折思い出したように姿勢を正す。その隣りにたすんとミケランジェロが腰掛けて、汗だくの首をシャツで拭いながらレオナルドの肩を突き、窓の外を指さしてみせる。黄色く紅葉したイチョウの葉が、横長の窓に一列になって並んでいた。風が吹くと葉がとれて窓ガラスにぺたっと張り付き横へ転がりながら飛んでいく。
 ぱんぱんっと手を叩く音がして、「ミケランジェロ!」とどなる声。「はい!」慌てて立ち上がったミケランジェロが、群舞の中に飛ぶようにして加わり、次の瞬間一人だけ反対側に飛び出してピアノを止めた。「ミケランジェロ!」「はい!」「公演まで二ヶ月もないのよ!」「わかってまーす!」
 レオナルドは窓の外を見たまま、ぴくりとも動かなかった。ぱたぱたと落ちる葉が美しく回転している様が信じられなかったのだ。かろやかに、水の中を漂うように落ちていく。その一枚一枚が違う色を持ち、まったく別の道を辿りながらも最後は同じ場所にたどり着く。そのうちに曲が変わってレオナルドのソロパートになり、体は自然に立ち上がって舞台のうえでカトルしたが、意識は鏡に映る自分の体のゆく先ではなく、窓の外の落ち葉にやられていた。軸を持って回転する。回転する。つま先が顔の横を過ぎて、跳躍し、その高さに見ている者が息を呑む。レオナルドはもう一回はいけると思った。自分なら、この手足があれば、もう一度、と思って跳んだ。さらに高く、そう思った瞬間、ついた足が音をたてて崩れた。悲鳴があがって、ミケランジェロが床に盛大に倒れ込んだレオナルドのもとへやってくる。シューズの留めヒモが切れていた。
 
 
 
「落ち葉になろうとしたあ?」
 ミケランジェロが腹を抱えて笑った。二人は学院の前にあるタクシー乗り場で、なかなかまわって来ない順番を待っていた。レオナルドが顔をしかめて、煙草を持った手からナップザックを持ち替え「悪いか」と呟く。
「別に悪くないけどさ」ミケランジェロはリュックサックを腹に抱えて、小雨の降る空からかばっていた。「落ち葉! いやまいったね!」
 レオナルドは火の点いた煙草を指でゆらしながら、
「俺はただ考えてるんだ。ジゼルの王子は求愛するのにひたすら回るだけなんてばかげてるだろ。そんなのにいかれる女もどうかしてる」
「オイラならまず体の相性を確かめるな、好きになった相手とベッドの趣味が違ったら最悪じゃん。地獄だね。ペッティングなしの愛なんてあり得ない」
「おまえの趣味は聞いてない」
 レオナルドが吐いた煙で顔をけぶらせる。そのうちにタクシーが到着して二人して乗り込み、網戸の向こうでジャマイカ風のラジオを聞いている運転手にレオナルドが番地を告げる。ミケランジェロは相変わらずリュックを大事そうに両手に持っていた。レオナルドが窓の隙間から、煙草の先を出して灰を叩くと、ミケランジェロは思い出したように、くくくと笑って、
「落ち葉。王子が落ち葉」
「もういい、おまえに言うんじゃなかった」
「いやいい発想だと思うよ、レイチェルに言ってみたらどうかな、今度の公演、王子は全身落ち葉をつけて踊りますって。彼女はりきっちゃうよ〜ジャンプするたびに舞い落ちるんだ、お前の葉っぱがね、終わる頃にはあら大変!」
 両手で口を覆ってじたじた暴れるミケランジェロに、レオナルドはぱちんっと煙草の吸い殻を投げつける。「ちょっとお客さん」と運転手の声。ミケランジェロが足元に落ちた吸い殻を拾って窓の外に投げ捨てる。小雨の降った道は黒く濡れ、街にはレストランやバールの華々しい電飾が灯り始めていた。まだ古い町並みの残る煉瓦造りのアパートの窓に明かりが灯りはじめ、仕事から帰ってきた人々がテレビをつけてぱりっとしたスーツから部屋着に着替え、冷蔵庫からビールを出してきてフットボールの中継を眺めて、ビネガー漬けのニシンを食べていた。レオナルドは、荒っぽい運転でゆれる車内で、新しい煙草に火をつけた。マッチを外へ投げ捨てる。
「俺はもうやめる」
「は?」
 ミケランジェロの声が裏返った。
「やめるんだ。タイツを脱いで、ズボンを穿いてやる」
「冗談でしょ」
「いつかはやめなきゃならない。体なんていつかなくなる。どうせあと一、二年なら、早いうちに別の生き方を考えるべきだ」
 ミケランジェロは、口をぱくっと開けてレオナルドを眺め、背もたれに寄りかかってため息をついた。
「おまえにはいつもびっくりさせられるよ。これだから止められないんだ……幼なじみをね。あのさ、オイラずっとおまえと踊ってきて、というか、はじめオイラがやるって言ったんだよ。覚えてる? ダンスなんて女のやるものだって言ってたおまえは、いまや学院きっての王子様、オイラは華麗な村人14だぜ。そいつが今度は王子を降りるって? やったね、何人か闇討ちかければ、オイラにも王子役がまわってくるかもしんないよね!」
 レオナルドは無言で煙草をくゆらせた。ミケランジェロは興奮で持ち上がっていた肩をゆっくりおろして頷いた。
「まあ、それはオイラの話ね。おまえが悩んでんのは知ってるよ、カライちゃんに相手を断られたんだろ?」
「彼女は関係ない」
「ありありだよ。おまえら二人が去年組んだときのあれ、完璧なムーブメントだった。だからオイラは諦めた。一等になるのをやめた。でも好きだから、村人14で楽しんでる」
「俺は」
 レオナルドは煙草を吸い込んで目のうえを押さえ、聞こえるか聞こえないかのわずかな声で呟いた。
「おまえみたいになりたかった」
 車がカーブして車内が揺れると、二人はしばらく無言になってゆれに身を任せた。空いた窓からほろ酔いかげんで歩く人々の笑い声や、流行のポップミュージックが聞こえてきた。レオナルドが吐き出した最後の煙が薄暗い車内に消えると、ミケランジェロがゆっくり身を乗り出して、運転手に目的地を変えると告げた。早口に番地と名前のようなものを言って、運転手はけげんそうな顔をしたあと、ゆっくりとウィンカーを出して車をUターンさせた。
「なにか忘れたのか?」
 ミケランジェロは腕にした時計をちらっとみて、
「今日は月曜だから安く入れるんだ。客も少ないしね」
「なんの話だ」
「オイラたちはいつも一緒の幼なじみだもん。オムツがとれたのも、立って歩いたのも、精通も確かにお前の方が早かった。では、なぜオイラだけがこんなにビューティフルでいられるんでしょう、か!」
 ミケランジェロが大げさに両腕を広げると、レオナルドは煙の向こうで微笑んだ。
「ついてきて」
 
 
 
 車はビル街から、狭い裏通りに入った。バーが何軒も並び、駐車した車のボンネットで男女のカップルが抱き合って転がりまわっている。レインボーフラッグのはためく店の裏では女同士が、互いの白い耳たぶにささやき合っている。新しめのタトゥーショップに長い行列ができ、店頭のブラックライトの下、ツノや肩に呪術じみた紋様を入れたサイの四人組が順番を待っていた。車はどんどん奥に進み、人気のない場所までやってくると、急にミケランジェロが運転席の背もたれを叩いて車を止めた。道の端にほとんど布一枚程度の装いをした女が立って客待ちをしているようなところだった。
 レオナルドはにわかに不安になったが、ミケランジェロはいつも通りの笑顔で運転手にチップ多めの料金を払い、レオナルドを外へと押し出した。湿っぽい通りに出張サービスやらガールズバーやらのチラシが落ちてじゅうたんになっている。頭上に煌々と点るネオンライトは、
<RED EYE>
 ミケランジェロはリュックを背負い、その店のベルを鳴らした。重そうな取っ手ががちゃりと下に降りて、分厚い防音シートを張った扉が開くと、地響きのようなビートと繰り返しのメロディが漏れてくる。扉の隙間から、具合の悪そうな黒猫が顔をみせて、警官が持つような木の棒を片手に二人をじろじろ眺めた。ミケランジェロがその耳に何事が囁いて、ポケットからボロボロの紙幣を数枚差し出す。黒猫はそれを空にかざして裏返したり明かりに透かしたりして確かめたあと、ジャケットの内ポケットからクリップ留めのついた白い造花を二本取り出してミケランジェロに手渡した。ミケランジェロが一本を自分のシャツの首回りにパチンと留めて、もう一本をレオナルドに差し出した。
「つけて」
「これを?」
「そう」
 レオナルドは言われたとおり白い造花をジャケットの胸ポケットに止めた。扉が大きく開いて、二人は暗い店内へ通される。防音シートの壁がつづき、やかましい音楽に女の声のコーラスが混じって反響し、前をいくミケランジェロの頭を紫と緑の光が交互に照らす。光に目を細めるレオナルドの体をミラーボールの反射光が撫でていく。廊下が終わると正面に高台のステージが現れた。けばけばしいピンク色の花道がステージの中央から客席を左右に二分して造られており、花道の行き止まりは円卓になっていてそこだけスポットライトで照らされていた。客席には映画館にあるようなワインレッドの起毛の布が張られていたが、どれも穴や黒い染みだらけで、つんと鼻をつくような匂いがする。前席はステージに近く、そのままステージにあがっていけそうだ。暗い店内にいるのはだいたい一人客だった。みんな座る場所を決めているのか、適度に距離を置いて座り、ステージに見入っている。レオナルドはミケランジェロに連れられて円卓の真正面の席に陣取った。ばたんっと勢いよく降りる座面が汚れていないか触って確かめ、レオナルドは甲羅の後ろにナップザックを置いて、できるだけ浅めに腰掛けた。ミケランジェロは慣れた様子で深々と腰掛け、リュックを足の間に挟む。ぱっとライトが落ちて真っ暗になると、ミケランジェロやレオナルドの胸についていた造花が青白く輝いた。他の席でもぽつぽつと火が灯ったように青い花が咲いて、何人の客がどこにいるのかがすぐに分かるようになった。
 ぱっと照明がついて舞台に集まり、ステージにずらっと並ぶシルエットを浮かび上がらせる。エナメルの長いブーツと丈の短いワンピースを着た蛇女が、なめらかな蛇皮の両腕を左右にふって花道を進み出てくる。真っ白な鎌首を悩ましげにもたげ、つり上がった茶色い目の回りにきらきら光るスパンコールを貼り付けていて、かつんとヒールで円卓をふみ、回るとそれが眩しく光る。女はがくんと片膝をついて突然両足を左右に開いてみせる。女のワンピースの下に下着らしいものはなく、レオナルドはぱっと目に入ってきたものに面食らってミケランジェロに視線を移した。彼は気がつかず、目をきらきら輝かせてステージに見入っている。たまにウインドーショッピングにでかけてお気に入りの服に出会ったときと同じで、そういうときはだいたい、「オイラこいつに会うために生まれてきたんだ」と言う。じっと見ているとミケランジェロの口がもそもそ動いて何か言って、満面の笑みになる。そして、あちらこちらに視線を散らしてばかりいるレオナルドの肩を叩いて、
「ねねね、あの子がオイラのジゼル」
 とレオナルドに聞こえるように囁いて、ステージを指さした。彼女は全身しましまの、背の高いトラ女で、透明のビニールのサンダルに、黄色の房をたくさん垂らしたノースリーブのドレスを着ていた。広い肩を左右にふると、毛並みが照明に白く浮きだし、花道を歩きだすと、ドレスの房がばさっと持ち上がってその隙間から、白い産毛に覆われた豊かな乳房が見え隠れした。短いスカートから覗く内腿に黄色と黒の渦を巻いた模様があり、それが彼女の自慢なのか、円卓にやって来るとと膝をひらいて大きく屈み、黒い爪をした指でそこをなぞっていって足の間で固まって生える金色の縮れた毛並みをそっと撫でて見せつける。レオナルドがぱっと顔を伏せる中で、あたりから拍手が巻き起こり、恍惚とした顔で見入っていたミケランジェロが胸の造花をとってぽんっとステージに放り投げる。彼女が足元に落ちた花に気がついてそっと指に挟んで拾い上げ、黒目をじっとミケランジェロに向けてその花で毛並みの良いふくらはぎや、つんと突き出した紅色の乳首をなぞって口元に持っていく。ぱっと客席から何本か花が放られて、彼女はそれらを足の指や口で拾ってみせて、円卓で柔らかい体をしならせて妙技を披露した。そのあとも次々と演者が現れて花道を歩き、女達が出そろうと、ただでさえ薄い着物を全員が一斉に脱ぎ捨てて、明るいスポットライトの中で体を惜しげ無くさらけだした。レオナルドは、ついつい一カ所に目がいってしまうのを必死でこらえ、固い座席でなんともいえない気持ちでそれを見ていた。彼女たちが下がってしまうと、ステージの照明が落ち、座っていた客は一旦トイレか、何か別の理由で立ち上がり、また新しい客が外から入ってきて座席の穴を埋めていく。何ステージが終わったころには、空いた席は数えるほどになり、彼女たちは入れ替わり立ち替わりステージに立って、汗だくになって踊りまわり、後半になるとレオナルドはやっと力を抜いて盛り上がったときには拍手ができるようなっていた。
 最後の休憩に入り、ぱっと客席が明るくなると、大勢いた客はぞろぞろと帰りはじめ、後には数人残るだけになった。円卓の近くにいるのはミケランジェロとレオナルドだけで、後から入ってきた客はみんなちょっと後ろの方に腰掛ける。ミケランジェロがふう、と息をついて座席に寄りかかり、「オイラにも毛皮があったらなあ」と、つるんとした頭を撫でながら言った。レオナルドが小さく笑うと、ミケランジェロがレオナルドの胸をちょんとついて、ポケットの造花をゆらした。レオナルドは「ああ」と言って花をとり、「つぎにしたら」とミケランジェロが欠伸混じりに言うのに迷ったように視線を彷徨わせた。
「そうしなよ。あげたぶんだけ彼女たちのお金になるんだからさ」
「……そうか」
 レオナルドは両手に花を挟んで持って、ステージをみつめた。
「次のやつでね、気に入った子にあげるんだよ、わかった?」
「わかった」
「絶対ね」
「わかったよ、なんだ急に」
「別に、気になっただけ」
 ミケランジェロはふいとステージを向いて言った。レオナルドが話し掛けようとしたとき、照明が暗くなって、ものものしい低音の音楽が流れはじめた。青い光がひとつ、斜めから黒塗りのステージに差し込んで、ドラキュラでも出てきそうなチープな曲に変わる。裾から出てくるシルエットはどれも大柄で横幅が広く、四角い肩と太い首がひかりにあたって一列に並ぶ。ぱっとステージが明るく照らされ、そこに並んで立っていたのは、同じヘビやトラでも全員が男だった。再び席の上で固まったレオナルドの耳にミケランジェロの忍び笑いが聞こえてきて、レオナルドはぎろっと睨みをきかせたが、ミケランジェロは涼しい顔をしてステージを向いていた。彼らはみんな黒いレザーのぴたぴたのきついズボンをはいていた。頭にはプラスチックでできた警帽を被っており、端から一人ずつそれを脱いで客席に放ったり、それで顔を隠したりする。まばらな拍手とはやす口笛が入って、彼らはさっきの女たちと同じように順番に花道を歩いてくる。レオナルドは彼らの足元だけに視線をやって、ちらちらと目の端にうつるものをなるべく見ないように努めていたが、ミケランジェロに肩を強く叩かれて、思い直して顔をあげた。彼らはいつの間にか全員短パン姿になっていた。全員白い歯をみせて陽気に笑い、時々転んだり、ムチで縄跳びをしながらラインダンスをやってみせたりして、笑いを誘っていた。中に一人、自分と同じ姿をみつけて、レオナルドは目をやった。彼は自分の警帽を指でまわしてステージの端にいた馬男の長い鼻面にひっかけたあと、今度は床を蹴って手をつかずにくるりとバック転してみせた。縄跳びの道具になっていたムチに向かって走っていって、絡みつくと、急に曲調が変わって照明が赤と紫に変わる。並んでいた男たちがそれぞれ重たそうな鎖や太いベルトを持ってきて、彼のまわりに集まり、ムチを肌に食い込むほどきつくまきつけはじめる。彼の緑色の両手首を頭の上からゆっくりと甲羅の後ろに回して縛り、膝立ちになっている足を片一方ずつ持ってももとふくらはぎがくっつくように折り曲げてベルトでくくる。ステージのうえからフックのついた鎖が四本、じゃらんじゃらんと降りてきて、男たちは四方に伸びた鎖を右足、左足、そして後ろ手に縛られた手首にひっかけ、残った一本を彼の首に巻いてぎゅっと締めつける。モーター音がして鎖がひきあげられると彼の体は宙づりになって足や腕が限界まで後ろに向いて折れ曲がり、体を拘束する鎖やベルトがその体をみるみる強く締め付ける。中空に停まると、上から何か透明な液体が鎖を伝ってきて、深い陰影を刻む体をまんべんなく濡らしはじめた。彼は苦しげに息をしてもがいて、鎖をしゃんしゃん鳴らし、そうしているうちに少しずつ拘束が緩んでくる。地響きみたいな唸り声と共にぱきん、と首の鎖が断ちきられる。折りたたまれた足が片方ずるんと抜けおちて、彼は後ろに縛られた両腕をゆっくりと持ち上げて頭をくぐらせ、体の前へ持ってくる。体にまきついていたムチがぬるぬると胸板を滑り落ちて床にとぐろを巻く。両手首を結んだ革紐を歯を使って乱暴に噛み切り、彼は残った右足の拘束だけでぶらんと逆さになって、大きくゆらめいた。荒く息をする咽や顎を粘度の高い液体が撫でるように伝い落ちてきて、汗と一緒に床に水溜まりをつくる。照明がもだえる彼の腕や足のうえをなめて濃厚な影を置き、呼吸するたびにその形を変えていく。彼が体を強くしならせると、ぎしい、と鎖が軋む音がして、きつく縛っていた足の拘束が解けた。そのままびたんっと床に落ち、這い蹲って水たまりをかき混ぜて散々もがいたあと、四つんばいになって、客席に鳶色の眼差しを向けて止まる。するとどこからか花が一つとんできて、床に広がった彼の指の隙間に落ちる。彼はぐしゃんとその花を掴みあげると、白いビニールの花びらを大きな口にぱくんと含んで立ち上がり、まっすぐ伸びた花道をやってくる。どこか甘い蜜のような香りが漂ってきて、彼は全身から滴るもので花道を濡らしながら、いつのまにか花でいっぱいの円卓で両手を広げ、客席に向かって恭しく跪いてみせ、口にしていた花を取りだしてふっと息を吹きかける。するとビニールの花がぼうっと真っ赤な炎に包まれて、彼がその火を自分の体に近づけると、濡れたところがぱっと燃え上がって全身を包む。火は彼の足跡を辿ってステージ中を駆け回り、後ろに並ぶ男たちの体も一斉に燃え上がらせる。彼が腕を振り上げると、熱いしぶきが飛んできて、レオナルドははっと、我に返った。両手に握っていた花がぽろっと落ちて暗い床に転げて見えなくなる。炎はますます熱く燃え上がり、円卓で跪く彼の身に纏うものを溶かしだす。黒いところがはらはらと剥がれ落ちて、濁った雫が足や腕を伝って最後の布きれが火花と一緒に消えると、レオナルドは両膝を握りしめて目をつむり、形のないどこかもどかしい感覚を余さず噛みしめた。
 
 
 
 ミケランジェロが道端に立ってタクシーが通る度に親指をたてて停めようとするが、タクシーはそれを無視して通り過ぎてしまう。ぎゃんぎゃん文句を言っているミケランジェロを眺めながら、レオナルドは投げ損ねた花を手に持ってくるくるとまわしていた。ミケランジェロが声をかけてくるのも、どこか遠くに聞こえて、レオナルドは、ああとか、うんとか適当に相づちをうつだけだった。頭の中で炎がぱちぱち弾けて走り回っていた。ミケランジェロがすっかりあきれ顔で、「もういい」と言って道に投げ出したリュックサックを背負って歩き出す。するとレオナルドは突然思い出したように、ミケランジェロのリュックの紐を掴んでとめた。
「いま何時だ」
「ええ?」
 ミケランジェロが暗い中で腕をかざして時計を見る。レオナルドはミケランジェロの腕を街灯の下まで引っ張り込んで、
「11時か」と言って、そのままミケランジェロの腕をひっぱって反対方向に歩き出す。
「ちょっ、ちょっと、どこいくの」
「学校に戻る」
「え。い、いまから?」
「ためしてみたいことがあるんだ」
「それってオイラに関係ないよね」
「相手役がほしいんだ。つきあってくれ」
 えええ、とミケランジェロは後ろ歩きをしながら叫んだ。レオナルドはミケランジェロを強引に引きずったまま、明かりの落ちた暗い路地を歩き始め、途中ふっと思いついたように、店の裏手に回って壁に貼られたチラシを一枚一枚眺めた。中に<RED EYE>のチラシをみつけてじっと読んでいくが、ステージの時間と料金と酷いあおり文句だらけで、出演者の名前も写真ものっていない。そのすきにミケランジェロが掴まれた腕をふりほどいたが、レオナルドはそれにも気がつかずにチラシを読みふけっている。
 ばたんと、隣りにあった小さなアルミ扉が開いて、女達の群れが明るい声をばらまきながら現れた。中で一際背の高いトラが、あっ、と言ってミケランジェロを見る。ミケランジェロがぱっと顔を輝かせて「ミシャ!」と呼ぶと、彼女は女達の群れから出てきた。そして逞しい腕を広げ白いシャツの胸にミケランジェロの頭を強く抱きしめて、ほっぺたにたくさんのキスを送った。彼女はいまは下にジーンズとぺたっとしたパンプスをはいていて、頭から背中までつづく金色のたてがみをピンでとめていた。
「どうしたの、待っててくれた?」酒焼けした低めの声色だった。顔の横に伸びた細い髭をぴんと立てて、猫目を細くして笑う。
「タクシーがぜんぜんつかまんなくてさ」
「あー、いま帰りの女の子のせてるのが多いからね。ちょっと待ったほうがいいよ」
「ねえねえ、上からオイラのこと見えた?」
「見えた見えたばっちり。どこにいてもわかるもん、可愛いから」
 彼女はがらがら笑って暖かそうな毛並みの手でミケランジェロの頭を撫で擦った。
「きょうは学校なしの日?」
「あったけど、連れてきたい友達がいてさ」
「そういやいたね、最後まで目を合わせてくれなかったのが」
 ぱんっと腕を叩かれて、レオナルドは顔をあげた。彼女がレオナルドの前にやってきて、細い目で笑った。
「来てくれてありがとう。びっくりしたでしょ」
「いや、そんなことは……」
 レオナルドは見上げるような体格の彼女を見て、まばたきした。彼女はレオナルドの胸ポケットについた白い花を見て、意味ありげな顔で、
「あたしにくれると嬉しいなあ」
「え? あ、ああ、うん」
 レオナルドが慌ててポケットから花を外して差しだそうとすると、がははと彼女が笑った。
「うそうそ。今度きたらちゃんと使ってね」
 笑いながら手を振って去ろうとする彼女を、レオナルドは思いついたように呼び止めた。
「あのさっきの、あの最後の、あれは……」
 彼女は黄色い猫目を開いて、首をかしげた。
「いや、いいんだ……すまない」
 レオナルドが視線を落としかけた、そのときだった。ばたんとアルミの扉が開いて、ふらりと道に出てきたのだ。彼女が振り返って「ラフ」と呼ぶのをレオナルドは聞き逃さなかった。彼は道の真ん中で立ち止まると、ぶかぶかのパーカーの前ポケットに突っ込んでいた手をのそりとあげて、彼女に挨拶し、また歩き出した。くわっと欠伸をする声がした。レオナルドはばっと駆けていって、彼の前に回り込んだ。彼が歩いていた足を止めてレオナルドをみる。近くで見ると、年頃はレオナルドとそう変わらないようにみえた。目線の高さも同じで、正面にある鳶色の瞳が眠たそうに揺れている。レオナルドが突っ立ったままじっと見ていると、彼は空気の混ざったしゃがれ声で、「なにか用か」と言った。レオナルドは、開いていた口を閉じて、うろうろと視線を彷徨わせ、自分の手に持った造花に気がついて、ぱっと差し出した。彼は鼻先につきつけられた造花にちょっと驚いて顎を引く。レオナルドは焦ったように、
「中で渡しそこねたんだ。初めてきたからちょっと驚いてしまって。タイミングがよくわからなかったし。そうだ、学校はどこなんだ」
「学校?」
「そうだ。どこに入ってる」
「どこも入ってねえよ」
「え、なんだって、どこにも? 本当に?」
「馬鹿だからな」
「そっちじゃない」
「なんなんだよ」
「俺は王立学院にいるんだ」
「王立って、バレエの?」
 レオナルドが頷くと、彼は口を歪めて嗤った。
「なんで王立がこんなとこにいんだよ」
「誘われて」
「店にいたか?」
「ああ」
「それで王立の奴が、俺にそいつをくれんのか?」
「そうだ」
 彼は口をへの字にして、レオナルドをじろじろ眺めまわしていたが、しばらくしてそれが本当であると踏んだのか、ポケットに入れていた手を出して、そっと花を受け取った。そして今度はちゃんと笑って「ありがとな」と言い、レオナルドの腕をとって肘のあたりを花でつい、と撫でながら、
「また来いよ。サービスするぜ」
 と囁いたあと、くるりと甲羅を向けて歩き出した。花を持った手を頭の上で振り、そのまま角を曲がって姿を消してしまう。レオナルドは彼の行った道をしばらく眺めたあと、ふうと肩を楽にして実に清々しい顔で振り返った。後ろでは、ミケランジェロが驚いたような顔で立っていた。レオナルドはとたんに真顔になって足元に置いていたナップザックをとり戻ってくると、ぽかんと口を開けたミケランジェロの腕を掴んで、その燃えるような体を学校へと急がせた。
 
 
 
 
 
 
 ラファエロは何回目かの欠伸をして、鉄板にずらりと並んだハンバーグを、フライ返しでひょいひょいひっくり返した。焦げ目のついた鉄板にじゅわと肉汁が広がる。隣にある押し出し式の機械の口から平たいパンをふたつとって置いて、籠にあったレタスをパンのうえに敷き、その上にハンバーグを乗せてチーズとピクルス。両手にケチャップとマスタードのチューブを持ってぎゅっと絞ると赤と黄色のソースがうまいこと混ざってかかって、そこへまたレタスとパンを乗せ、くるりと包み紙で巻いてカウンターの籠に並べる。それを多いときは十個並べて一度にこなす。ラファエロは瞼を半分にしながら、無意識にそれをやっており、交代のアルバイトが来て客席と厨房を仕切ったガラスの壁をばんばん叩くまで、時間を見てもいなかった。ラファエロが役目を交代してエプロンを解きながら、客席を覗くと、昼過ぎの店内はどこかのんびりとしていて、ぽつぽつと現れる常連客がコーヒーとおしゃべりを楽しむ時間になっていた。ラファエロはエプロンをクリーニングの籠に突っ込むと、後ろに下げられてきた料理の皿から冷えたポテトやベーコンをつまみ食いしながら、がしゃこん、とタイムカードを切った。
「ラフ!」
 声をかけられて振り向くと、白い包み紙でくるんだバーガーがふたつ飛んできた。ラファエロが両手でそれを受け取ると、「失敗したからやるよ!」と交代できたアルバイトの青年が言った。そして「今度、二時間だけ変わってくれ」ラファエロはバーガーを前ポケットに突っ込みながら「一時間だ」「それでもいい」「わかった」
 ラファエロは床に置いてあったゴミ袋を持って勝手口から店を出た。ぎゃっと悲鳴のような声で鳴く猫が、ゴミ箱のフタのうえで毛を逆立てていた。ラファエロが足踏みをして脅すと、猫はフタからぴょんと飛び降りて路地を走っていってしまう。ゴミ入れに持っていたゴミ袋をぎゅっと突っ込んでフタをすると、ラファエロはポケットからバーガーを一つ取りだして、むしゃむしゃ囓りはじめた。路地を抜けて大通りに出ると、途中でスーパーに寄ってセブンアップの六缶パックと、風呂の排水溝に使うゴム栓を買っていく。片手に黄色いビニール袋をぶら下げて残りのバーガーを囓りながら人の多い通りを歩いていると、目の前が開けて大きな広場が現れる。四方をビルに囲まれた街の真ん中に、ギリシャの宮殿のような白い石造りの建物が建っている。モザイクの美しい広場と、水浴びする女神を上に置いた噴水があって、広い敷地内は鉄格子でぐるりと囲まれている。入口には、警備員の駐在する小屋が立っており、そこを若い学生風の集団が通り抜けていく。馬や鹿や鳥が多くいて、どれも若くてスタイルがいい。切妻を施した正面口に国旗と、王立学院の校章が掲げられて風に揺らめいている。ラファエロは立ち止まってしばらく学院を出入りする生徒たちを眺めたあと、街角にある公営の駐車場からバイクに乗って出てきた。道にあったゴミ入れにバーガーの包み紙を捨て、がるんと、エンジンをかけて、車道を走り出す。ガラス張りの近代的なビル街を後ろに置き捨て、小さな橋を通って川を渡ると赤煉瓦造りのアパートが並ぶ住宅街に出る。まだ時間が早いせいか、往来に人はまばらで、ラファエロは一人バイクを唸らせて、中でも一際古そうなアパートの前で停まった。バイクを降りてダイヤル式の正面口から中へ入ると、郵便受けの向こうにある小さな駐車スペースに、他の自転車を押しのけながらなんとかバイクを停める。
 バイクの鍵を手の中でちゃりちゃり言わせながら、エレベーターの柵を開く。中へ乗り込んでまた柵を閉じると、ラファエロは3階のボタンを押した。全面を網で仕切られただけのエレベーターの箱が、壁に3≠フ文字がある階へ到着する。柵を開いて外へ出ると、またすぐにエレベーターが動いて上へ行ってしまう。柵ごしに上へ伸びるケーブルの群れが見える。
 3階の狭い廊下に部屋は三つだけだった。ひとつは表札がなく、一つは扉が取り払われて”立ち入り禁止≠ニ書いた黄色いテープが張り巡らされていた。その部屋の前を通りかかると、虫食いだらけの床板が見える。ラファエロは顔をしかめながらその部屋の前を通り過ぎ、つきあたりの301号室の扉に、バイクの鍵と一緒につけていた鍵を差し込んで開いた。入ってすぐに短い廊下があって、奥にリビングと張り出し窓が見え、隅にあるブラウン管テレビがニュース番組を流していた。ラファエロがばたん、と扉を閉めて鍵をかけると、奥から「帰ったの」と弾むような声。
「おう」
 とラファエロが答えると、ばさばさと新聞を畳むような音がして、
「ちゃんと買ってきた?」
「ああ」
 ラファエロは玄関からすぐのところにあるバスルームの扉を開けて、正面の洗面台の下に買い物袋を置き、中から風呂用のゴム栓をとり出して、べりっと包装紙を破いた。台紙に書いてある説明書きにざっと目を通し、それを鏡の前にたてかけると、バスタブに下がっていたチェーンをたぐって、先についた古いゴム栓を手にする。横目でちらちら説明書きを見ながらラファエロは、古いゴム栓をチェーンから外して、チェーンの先に新しいのをつけた。バスタブの排水溝にそれを嵌めてみると、ちょっと抵抗はあったものの、きっちりと穴を塞ぐ。後ろでころころとタイヤを転がす音がして、振り返ると、車椅子に乗ったドナテロが、身を乗り出すようにしてラファエロの手元を覗き込んでいた。綺麗にアイロンがけされたポロシャツのうえに焦げ茶色のカーディガンを羽織り、座る足は毛玉だらけの紫の膝掛けに覆われている。
「うまくはまった?」
「大丈夫だ」
「ケイシーが全然サイズの違うやつ買ってくるんだもん。僕はちゃんとメーカーまで指定したのに。信じられないよなんでかなあ」
「あいつの頭には用事がふたつも入れば限界なんだよ。いちどに頼むからめんどくせえことになるんだ」
「つまり僕が悪いわけ」
「そうだ。あいつの脳みそを気遣ってやれ、天才なんだろ」
 ラファエロが鏡にたてかけていた台紙と包装紙をそばにあったゴミ入れに放り込み、買い物袋からセブンアップの缶詰を出してどん、とドナテロの膝に置いた。そのまま風呂場を出て行くラファエロの後をついて車いすを転がしながら、ドナテロはビニール紐を解いて、嬉しそうにセブンアップの缶をひとつとる。ラファエロは窓際に寄せていたテーブルからリモコンをとってテレビを消し、パーカーのポケットから冷えたバーガーを取りだしてリモコンと一緒にテーブルに置いた。ドナテロが「それ僕の?」と聞くと、「ああ」とラファエロは答えて、寝室へ続くビーズののれんをくぐってばすんっとベッドに飛び込んだ。
 しばらくもそもそやって鼻先を枕にうずめてふーと長いため息をつく。ドナテロはテーブルに広げていたノートや教科書を閉じて端に積み重ねると、セブンアップを持ってプルタブを持ち上げた。一口飲んで缶を車いすの横についた缶置きに差し、残りのセブンアップをキッチンにある冷蔵庫に入れる。冷蔵庫には食事を作り置きしたタッパーが積まれていて、扉側の収納には牛乳と、セブンアップがずらりと並ぶ。冷蔵庫の一番上には、プラスチック容器に入った小さなショートケーキがある。苺が一つのっていて、うえにカラフルなスプレーで、
congratulations Doooonnny!!
 と描いてあった。ドナテロはそれをちょっとだけ眺めて、ばたんと閉めると、冷蔵庫の扉にマグネットで貼り付けてあった白い封筒をとって、寝室へ行き、ベッドでだらしない顔をして寝そべるラファエロの枕を封筒を持った手でぱんぱんと叩いた。ラファエロが不機嫌そうに唸って薄目をあけると、ドナテロは封筒をその鼻先になすりつける。「みえねえだろ」といらいらした声で言ってラファエロがドナテロの手から封筒を奪い取った。そして細い目でじっと封筒を眺め、差出人の欄に目を通すと勢いよくベッドから起き上がった。ドナテロが肩を揺らして笑って、ラファエロはその頬をぺしっと叩く。ペーパーナイフで開けられた封筒を覗くと、中には添え書きと分厚い契約書類が入っていて、ラファエロはさっそくそれを開いて書面に目を走らせた。
「……度は誠に……ぜひとも本校に貴殿を迎え入れたく……そうかそうか当然だな、それより奨学金は、全額か、よし、おい! ケイシー呼べ!」
「だからもう来たってば。明日一緒に申し込みにいくよ」
「それで、いつ行くんだ」
「来月から一週間研修があるんだって。ほら、僕を受け入れるにあたって向こうもいろいろ準備がいるだろ。学校では介助員がついてくれるけど、できるだけ自分でやりたいから」
「そのまま向こうにいるのか」
「その前に、まずはこっちを卒業しなきゃね。テストは大丈夫、へましてなきゃいつも通り掲示板に名前が載るよ」
「そうか」
 ラファエロはいかっていた両肩を下ろして、改めて手に持った書面を眺めた。契約書類にはすでにドナテロのサインがしてあり、ドナテロの言う研修期間のスケジュール表と、進学に必要な教科書のリストと、航空券の支払い用紙がついていた。ラファエロはリストと支払い用紙だけとって、ベッドの脇のナイトテーブルに置くと、書類を封筒に戻してドナテロに渡した。ドナテロがそれを見て、
「ケイシーがさ」
「うん?」
「必要な分は貸すって言ってたよ」
「は、たいして持ってねえくせに」
「僕もバイトしてるし、それくらいは」
 ラファエロはナイトテーブルにあった電子時計を書類のうえに置いた。
「おまえの足じゃたどり着くまでに銀行がしまっちまうだろ。それにこれは貸すんだ。やるんじゃねえぞ。そのうちおまえがなんかでかいことして稼いだら、そうだな、まずでかいベッドが欲しい。ウォーターなんとかって奴で死ぬほど眠らせてくれ。それから飯を食いにいく、あそこのだ、昔行った、ロブスターがまるごと出てくる。そしたら、そうだな、まあいろいろだ」
「いろいろね。了解」
 ラファエロが電子時計のスイッチを入れてベッドに大の字になった。
「わかったら勉強しろ」
「いつもしてるよ」
「なあドン」
「7時になったら起こせ、でしょ」
「今日はいい」
「え、いいの?」
「休む」
「……店長に怒られるんじゃないの」
「いいんだ」
「そう……まあ……たまにはいいんじゃないかな。肉を焼くのなんて誰でもできるし」
 ドナテロがリビングに行って、テレビをつける。ラファエロは欠伸をしながら体をもぞもぞやって、突然思い出したようにジーンズの後ろポケットに手を入れて、小さな白い造花を取りだした。不格好に折れ曲がった花びらを指でのばし、針金のところをつまんでくるくる回しながら、
「ドン」
「なに」
「7時に起こしてくれ」
 ドナテロがテーブルに向かっていた顔をあげて、呆れたように、
「なに。それで次はやっぱりやめる?」
「夜は特別メニューなんだ」
「だからなに」
「俺しかできないんだ」
「肉を焼くのが?」
「そうだ」
 ドナテロがやれやれと首を振る。ビーズののれんが、しみだらけの低い天井に水玉模様を作っていた。動くと左右に揺れて、ミラーボールの反射光のようで、ラファエロはぼんやりとそれを見上げながら、きしむタイヤの音を聞いていた。
 
 
 
 カチカチン、と音がしてラファエロが目を覚ますと、部屋は真っ暗で、窓から差し込む月明かりが薄ぼんやりと部屋を照らしていた。はっとして時計を見ると夜の11時を過ぎており、ラファエロは慌ててベッドから起きあがって、脇にあった車いすにがつん、と足をぶつけた。足を握ってうんうん唸りながらリビングの明かりをつける。テーブルの上に白い封筒と書類が端をクリップで留めて置いてあって、その隣にはセブンアップの空き缶が、口に白い造花を咲かせて立っていた。下に小さなメモ書きが挟まれ、そこに鉛筆でいい夢を≠ニある。
 振り返るとベッドの隅でドナテロが甲羅を小さくして眠っていた。丸い頭を枕の端っこに乗せ、息をするたびに落ちそうになってゆれる。ラファエロは五月蠅く鳴るビーズののれんを慎重に持ち上げてそっと枕を動かし、ドナテロの頭を枕の真ん中にのせてやった。その手でナイトテーブルから支払い用紙とリストをとって眺め、キッチンへ行って上の棚から赤いヤカンを降ろしてきた。錆だらけのフタをとると、中に幾らかの紙幣と小銭が混ざって入っている。中を覗いてざっとその数を確かめたラファエロは、ため息と共にヤカンにフタをしてもとの場所に戻した。そして持っていたリストを上から読み直してパーカーの前ポケットに支払い用紙ごと突っ込んで、家を出た。
 街灯の少ない夜道でバイクをできるだけ飛ばしていった。歓楽街を突っ切って、すでに明かりの落ちた<RED EYE>にたどり着くと、裏口から店に駆け込む。ステージが終わって帰り支度をする女達の間をすり抜け、熱気の籠もる楽屋を過ぎて、ステージの幕内にやってくると、その手前にある落書きだらけの狭い階段を降りていってステージの真下にある関係者以外立ち入り禁止≠フプレートがかかった扉にたどりついた。ペンキ塗りの鉄の扉で、屈まないと頭をこすってしまうほど天井が低い。ラファエロは前のめりになって、扉を拳で叩いた。何度かやってから扉に耳を押しつけると「うるさいぞ!」と甲高い声がする。
「おれだ」
「誰だ」
「ラファエロだ」
 すると、しばらく間があってから、
「ああ……どうぞ」
 扉の向こうはコンクリート造りの窓のない穴蔵のような部屋で、天井は奥に向かってさらに低くなっており、ラファエロは首をひっこめながら中へ入った。壁中にフルカラーのピンナップ写真が張られていた。その全てに数字と名前が書かれていて、映っているのは、衣装を身につけてステージで踊るダンサーたちだ。奥に頑丈そうな金庫がひとつ置いてあり、前に木造の机があって、上にまだ何も書かれていない写真が横並びになっていた。その机に齧り付くようにして、ちいさい灰色ネズミがいた。小豆色の長い鼻をくっつけるようにして、ひとつひとつの写真に見入ってぶつぶつ言っている。
 ラファエロは扉を閉め、低い天井に手をついてネズミの元へ歩いていった。ネズミは革張りの小さな椅子に座っていたが足は床についておらず、ラファエロが近づいて声をかけても並べた写真を長い爪でひっかきまわすだけで顔も上げない。
「なんだい」
 ネズミは言った。
「悪い、今日は」
「もう今日は済んだ。そういう話なら帰ってくれ」
「ちょっと寝過ごしたんだ」
「この前も同じ理由だったな」
「悪かった。もうしない」
 ラファエロが机に手をついて苦い顔をすると、ネズミがひょいと顔をあげた。
「反省はいらないよ。君の取り分が減るだけだからね。他の誰かがその分をもらうわけで、わたしにとっては同じことだ」
「明日はちゃんとくる」
「それは今日の客次第だ。反応がよければ、そっちを使う。君のぶんがあるかは明日わかる」
「それじゃ困る」
「わたしは困らない」
「給料を前借りしたいんだ」
 ひくひく動いていた鼻が止まって、ネズミが三角耳をぴんと起こす。
「3日分だけだ。ちゃんとその分こなす」
 ネズミはふっと、笑うような口笛を吹くような音をたてると、言った。
「悪いけど、うちは完全歩合制だよ。信用商売なら他に幾らでもあるしね」
「すぐ必要なんだ。頼む」
「だめだ。特別扱いはしない。どんなに売れっ子でも扱いは同じだ。それがうちの商売のキモだ」
 ラファエロが黙って俯くと、ネズミは勢いで差していた指を内側に折りたたんで「まあでも」と続けた。
「君のおかげで客層が広がった。これは数字に出ているからね」
「じゃあ、」
「前借りはだめだ。他にいい方法がある」
 ラファエロは途中で何か分かったというように、肩を落として口をつぐんだ。するとネズミは急にもの柔らかな口調になって、
「もう前みたいなことはないよ。取り次ぎ役を変えたんだ、こいつは信用できる。何年も同じ業界でやっているし、明朗会計で仕事が早い」
 ラファエロがなおも黙っていると、ネズミは細い指を組んで、ゴマのような目を細めた。
「どうした。前はそっちでやってたろ」
「……だから死にかけた」
「前とはなにもかも違う」
「やることは一緒だろ」
「いいか」
 ネズミは短い足を組んで続けた。
「何事にも一流があって、二流がある。どんなものでもやり方次第でちゃんとした仕事になる。掃除夫も銀行員も同じなんだ。もちろん、君の商売もね。とても身のある仕事だ他にはそうない。それが無理ならまた明日だ。しばらくは端役だろうが、君ならまたすぐに巻き返せるだろう。どちらでも構わないよ。さあ決めてくれ、わたしはもう帰りたいんだ」
 言い終わるとネズミは顔を写真に戻してまたぐしゃぐしゃとかき混ぜはじめた。ラファエロは胸の前でゆっくりと腕を組んで、深いため息をつく。ネズミが机に乗り出すようにして答えを待っている。ラファエロは重たい口を開いた。
「……なら、頭のいかれてない奴にしてくれ、まともに話ができる奴なら、いい」
「まかせろ」
 ネズミはさっそく机の上の電話をとって、早口に、
「君にはけっこうファンがいる。そのうち行列ができるぞ」
 ラファエロは何も言わずにきびすを返して部屋を出た。丁度階段の上を通りかかったトラのミシャが手を振るのに、少しだけ笑みを見せて手を挙げたが、彼女が行ってしまうと、階段に腰掛けて扉の向こうで交渉をしている声に耳を澄ませた。それが聞こえなくなると、上にあがっていってステージの端へ立ち、静かになった客席を眺めながらラファエロは、その場にどかっと腰を下ろして両足をひらき、関節を伸ばせるだけ伸ばした。それからひょいと逆立ちをして体をしならせてステージに飛び出すと、照明の消えた暗い花道を歩いていって、ダンサーたちの足跡が残る円卓で、パーカーのポケットに手を突っ込み、ちょっと体を揺らしながら、呼ばれるのを待った。
 
 
 
 
 
 
 レオナルドはバーに手をついて深く項垂れた。荒い呼吸に肩を揺らし、床には汗だまりが幾つもできていた。目の前の鏡には、外にあるイチョウの木の群れが映りこんでいて、もうほとんど葉っぱは残っておらず、寂しげに枝を曲げて立っている。
 広い練習室にはレオナルドが一人きりで、CDデッキからぽろろんとスローテンポのピアノ曲が流れていた。レオナルドが、ほっと鏡に向かって息をついて体を起こす。汗の染みたスウェットの足を伸ばしてバーにのせ、その足にべったりと上半身をもたれて目を閉じる。
 練習室の入口の扉から、ちらっとミケランジェロの顔が覗いた。「やれやれ」とわざとらしい声で呟きながら、甲羅で扉を押し開けて入ってくる。
「学食が混んでてさあ、外のにしたけど、いい?」
 ミケランジェロは両手に茶色い紙袋をぶら下げていた。
「俺は遠慮しておく」
 レオナルドはバーをつかんで、かがみ込む。ミケランジェロが「ああそう」と呟いて音楽を止めた。すかさずとんでくるレオナルドのきつい眼光を手で避けるふりをして、ミケランジェロは紙袋から白い包み紙にくるんだハンバーガーを取りだし、レオナルドに向かって投げた。そして自分は部屋の真ん中に堂々と腰を下ろして、包み紙をむき、分厚いチキンとベーコンのバーガーをとって食べ始めた。レオナルドは仕方なくその隣りへ行って座り、包み紙を開く。立ちのぼる甘ったるい香りに顔をしかめて、レオナルドは何層にもなったバーガーから肉とピクルスを指でつまみだした。そして隣でがつがつとむさぼるミケランジェロの口に持って行って食べさせ、自分はレタスとソースだけのパンをちまちまかじった。
「ミシャにも聞いたけど知らないって」
「そうか」
「名前も偽名使ってるかもしれないってさ」
「だろうな」
「大声で叫んでみたら? 亀のストリッパー探してるんですけど知りませんか!」
「その方が早いかもな」
「もうやめといたら」
「どうして」
「噂になってるよ、王子が夜遊びしてるって」
「別にあそんじゃいない。おまえだって同じだろ」
「オイラが遊んでたって普通だもん。王子は極端な話トイレにもいっちゃいけないんだからさ」
「わかった。じゃあいまからトイレに行って昨日の女は具合がどうだのって話をすればいいんだろ。便器の水で手を洗ってやるよ」
「その後に使ったら御利益がありそうだなあ」
「じゃあどうすればいいんだ」
「いつも通りにしてなよ。もうすぐ公演だし、それが終わったらやめるんだし」
「やめる?」
「やめるって言ってたじゃん」
「……それは」
「ん?」
「いつかはそうする」
「いつかっていつ」
「やってみたいことがあるんだ。それができたらやめる。だから、そのためにももう一度観たいんだあれを」
「観ない方がいいんじゃないかなあ、二度目で幻滅するかも」
「したっていい」
「それじゃ観なくてもいいじゃん」
「観なくてどうする」
「なら友達にでもなれば」
「友達? 冗談だろ」
 レオナルドはパンを半分以上残して紙をまるめてしまう。
「彼自身に興味はない」
 ミケランジェロはバーガーを食べ終わって、今度はポテトを取りだして口に放り込みはじめた。
「まあやる気になったんならなんでもいいけどね」
「おまえもなれ」
「はあ? いつもやる気まんまんじゃんか」
「じゃあちゃんと役をとってこい。おまえにだって十分素質があるんだ」
「いわれなくたってちゃんとやるよ」
「そうか? 王子を狙ったっていいんだぞ」
「あらまあ直々にお許しをいただけるなんて光栄ですわ」
「真面目な話だ。ミケランジェロ、俺を理由にするな。本気になれ」
 ミケランジェロはけらけら笑いはじめたが、レオナルドがじっとみつめるので、続けられずに塩のついた指をぺろりと舐めた。それから紙袋をぐしゃぐしゃとまるめて立ち上がり、ゴミ箱に捨てて戻ってきて、ジャージのハーフパンツの下に穿いたスパッツに指をいれて位置をなおしてから、ぎゅうと大きく背伸びをして呟いた。
「考えとくよ」
 そのとき丁度鐘が鳴り、生徒達が練習室に入ってきて柔軟をしはじめた。ミケランジェロはくるりと甲羅を向けて、彼らの群れに加わると、その日は一日中、レオナルドを見ようともしなかった。
 
 
 
 
 
 
 テレビ画面で、妖精が一列になってダンスをしている。ピンクとブルーのチュチュが動く度にふわふわ揺れる。妖精たちの短い足が一斉にあがり、隣の子の腰に捕まって全員でキープする。それからジャンプ、スキップして、頭から羽根飾りをとって手に持って客席に降る。真っ赤なチークが笑顔に映える。小さなポワントの群れが床を蹴って、全員で腕を挙げて波のように揺れながら妖精たちは幕内に消えていく。すると今度は白いタイツを穿いた、いかにも王子様といった男が出てきて、うろうろとステージを歩いて何かを探している。その後ろからはにかみ顔の少女がやってきて王子の後をこっそりつけていく。王子はベニヤに描いた草や、木の後ろを探すが、少女はつま先でちょんちょんと床を蹴りながら、王子の後ろに回り込んでみつからないようにする。探し疲れた王子が切り株に腰掛けたところを、少女が脅かそうとすると、先に王子の方が振り返って、二人はびっくりして互いに後ずさる。王子は目の前にあるものが信じられないというように目をこすってじっと少女を見つめると、嬉しげに飛んで回って、恥ずかしそうに俯く少女の前に恭しく跪いて掌をさし出す。少女は顔を背けながらも王子の手に震える細い指を乗せ、二人は徐々に体を寄せ合い、喜びと春の訪れを祝福し合って、踊り始める。
 ラファエロは電気もつけていない暗いリビングで、それを観ていた。手に野球ボールみたいに丸まった紙幣を握りしめて、画面の王子が動くのをまばたきもせずに目で追う。テーブルには折れ曲がったリストの紙と支払いの受領書が放っておかれ、テーブルクロスに青い光がぱ、ぱ、と切り替わって映り込む。そこへエレベーターの動く低い振動が聞こえてきて、ラファエロはリモコンを掴んでチャンネルを切り変え、リビングの明かりをつけると、キッチンの棚にある赤いヤカンをとってフタを開けて中にぐしゃぐしゃの紙幣を押し入れた。廊下を走るタイヤの音と話し声がして、ラファエロはくるりと部屋を見回してから、扉の鍵が音をたてるのと同時にバスルームに駆け込んで戸を閉めた。
 がちゃと玄関が開いて「あれ、帰ってるみたい」とドナテロの声がする。「明かりついてなかったぜ」やけに明るい男の声もして、ラファエロはバスタブについたシャワーの栓をひねった。ぱしゃぱしゃと水圧の不安定なシャワーが流れ出して、すぐに熱湯に変わり水蒸気がシャワーカーテンを曇らせる。こんこん、と戸を叩く音。
「ラフ、いるの?」
「帰ったのか」
「うん、ケイシーも一緒」
「ようラフ! なあドニーの奴すごいだろ、見たかよあれ、」
「風呂の栓ぐらいちゃんと買ってこい」
「はあ?……なんだよいきなり」
 不満そうに歪むケイシーの声と、ドナテロがしっと宥める気配があって、
「ピザ買ってきたけど、食べる?」
「食べる」
「じゃあ、早く終わらせてでてきなよ」
「わかった」
 もごもご言うケイシーをドナテロが急かしながら、車の音がリビングの方へ消えていく。ラファエロはしばらく扉の前に立って向こうの気配を探っていたが、リビングで冷蔵庫を開ける音がすると、扉から離れ、バスタブに近づいて底に転がっていた新しい栓を排水溝にはめた。そして鏡の前に立つと、着ていたパーカーを億劫そうに脱いで、両手に持って匂いを嗅いだ。それから服を広げて、手首や肘や後ろ側が汚れていないか確かめて、まるめて便器の蓋のうえに置き、下も同じように脱いで隅々まで確かめてから上に重ねた。そして湯の溜まりはじめたバスタブに入ってシャワーカーテンを閉じて狭い中に座り込み、甲羅に熱いシャワーを浴びながら、底に溜まった湯を手で掬って頭や膝にかけて擦った。
 濡れた体をタオルで拭いたあと、ラファエロは便器の蓋に置いていた服をまた着た。バスタブの栓を抜いて濁った湯を流し、シャワーでバスタブを洗い流してから風呂場を出ると、リビングにいたドナテロがラファエロを手招いていた。テーブルのうえに、紙箱に入ったポテトとソーセージのピザが、三つの大きなピースに切られて置いてあった。その向かいにはケイシーが座っていて、ぐしゃぐしゃになったリストの紙を手に持っている。ケイシーがラファエロを見てちょっと得意げな顔をした。
「おまえ感謝しろよ」
「なんだ。風呂の栓はいらねえからな」
「うるせえなあ、種類があるなんて知らなかったんだよ。それよりこれ見ろ」
 ケイシーが足元から重そうな布袋を持ち上げてどんと膝に乗せ、ジッパーを開けた。ドナテロが立ったままのラファエロの腕を引っ張って椅子に座らせる。ケイシーはピザの箱をテーブルの端に寄せると、布袋の中身を、テーブルに積みあげはじめた。どれも分厚い教科書で、紙が日に焼けていたりカバーがなかったり、使用感のある古いものばかりだ。そうしてテーブルに本の山を築いたケイシーは、厚い胸板を張り、
「従兄弟がドニーと同じ学校だったって聞いてさ、昔使ってたのを貰ってきたんだ。古いけどまだ使えるだろ」
 そう言ってリストにあった名前と、一冊一冊を照らし合わせていく。それが済むとケイシーはラファエロの鼻先にリストをかざして、
「みろ、ほとんど済んだぞ」
「ありがとう助かるよ」
 ドナテロが、山を自分の方に引き寄せて、嬉しそうに手にとってめくりはじめる。ラファエロが、訝しげな顔で本とケイシーを見て、
「いいのかよドン」
「うん?」
「人のなんか使ってたら、他の連中に何か言われるんじゃねえのか」
「なんで。全然いいよ、ほら、大事なところにもう線がしてあるから楽じゃない? こっちの方が気兼ねなく使えていいよ」
「ほらみろ」
「おまえに聞いてねえよ」
「ラフもありがとう」
「あ?」
「支払いに行ってくれたんでしょ」
「ああ、まあそうだな」
「今日は、これから?」
「いや。もう済んだ」
「そっか」
 ごほんと咳払いが聞こえて、ラファエロが顔をあげると、ケイシーが眉毛をきゅっと持ち上げてこちらを見ていた。
「ああ……まあ……よくやった」
「それだけかよ」
「さっきは悪かったな」
「で?」
「ありがとう」
「いいっていいって」
 ドナテロの口がうっすらと笑みを浮かべ、瞳が夢中になって字面を追っている。ラファエロは車いすの肘置きを撫でながらそれを見ていた。そうしていてふと、テーブルのうえにあった空き缶が無くなっていることに気がついて部屋の中を見回す。本を袋に戻していたケイシーが、「なんだ」と聞くのに曖昧に返しながら、ラファエロは立ち上がってキッチンのゴミ箱の中や棚をみてまわり、冷蔵庫の扉にマグネットで白い造花が貼り付けられているのをみつけてほっと息をついた。ラファエロはそれをしばらく眺めてから、冷蔵庫を開き、中からセブンアップをとった。それをしゃかしゃか振りながら戻ってくると、テレビをつけてげらげら笑っているケイシーの顔に向けて、ぷしっとプルタブを鳴らした。